会津市内
綱淵文学「戊辰落日」に影響され、
会津市内の史跡を巡ってきました。
一日では回りきれないので、東山温泉に二泊。
新島八重生誕地

新島八重生誕地の碑

新島八重は、会津藩砲術師範・山本権八の三女。兄・覚馬から習った砲術を生かし、会津籠城戦では北出丸で
スペンサー銃を駆使し、
奮戦、大活躍をされたとか。

写真は八重さんの生家跡

八重さん生家跡を示す地図

生家跡近くの駐車場に
表示されていた地図

右手上方が鶴ヶ城

会津藩士戦死者の墓碑

阿弥陀寺境内には、
戊辰戦争で亡くなった
1300体ほどの御霊が供養されています。

戦後、会津藩戦死者の遺骸は
放置されたままでしたが、
明治2年になり、ようやく
ここ阿弥陀寺と長命寺に限られ
埋葬が許可。この遺体放置は、
明治維新の『

阿弥陀寺境内

右手に本堂、正面奥は御三階。

戊辰の戦火で、お堂が焼失した阿弥陀寺。
御三階は、本堂として、
鶴ヶ城本丸より移築とか。

戊辰の殉難者慰霊のための鐘楼が
左側に見えます。
鐘楼は、明治31年9月
鋳造建立されたとのこと。
哀悼の結実』作品。


阿弥陀寺にある
説明文

斉藤 一墓所

阿弥陀寺境内にある
斉藤一の墓所

彼は最後まで
会津と共に…。
その清さに感服。


御三階

御三階

鶴ヶ城の本丸にあったものを
移築したものであるとか。

外観は3階ですが、内部は4層に。

2階と3階の間に天井の低い部屋があり
当時は密議所に使用されていた
という話も伝わっています。

御三階説明

御三階説明板

上掲写真の説明です

清水屋跡

清水屋跡

かつて、会津に旅した
吉田松陰、土方歳三、新島八重などは、
この地にあった、清水屋旅館を
利用したとのこと。

現在は、大東銀行があり、
左端に史跡案内文が望見できます。

清水屋旅館跡の石碑

清水屋旅館跡の説明板

画像の解像度を大きめにしましたが、
文字が読み取れるでしょうか?

法界寺山門

法界寺山門

柳橋の戦いに、奮戦し果てた、
中野竹子が眠っています。

武士の猛き心に比ぶれば
数にも入らぬ我が身ながらも

中野竹子墓所

中野竹子墓所

法界寺にある
中野竹子の墓所。

参拝当日も、写真のように
綺麗なお花がお供えしてありました。

合掌!

中野竹子の説明板

墓所の近くに、写真のような
案内文が記されておりました。

会津の女性は、スゴイですね…。

中野竹子殉節碑

中野竹子殉節碑

戊辰戦争で、柳橋付近で奮戦、戦死した
娘子隊・隊長中野竹子の碑が建つ。

出陣の際に薙刀に
結び付けていたという
辞世の句はあまりにも有名ですね。

「中野竹子奮戦の地」説明文

彼女の気魄に
ガラシャ夫人のそれを想起しました。

スゴイの一言です。

柳橋

涙橋(柳橋)

写真は現在の涙橋。
戊辰戦争時の
娘子隊奮戦の地である。

中野竹子が、浮き世を後に…。

本光寺

本光寺

濃霧が招いた
不運の武将・山本帯刀が眠っている寺。
その正門です。

長岡藩士殉節の碑

飯寺での長岡藩士の悲運、
それを跳ね返す、続く彼等の行動は、
後世に「武士道」の意地を
披瀝してくれました。

天晴れ、山本帯刀!

長岡藩士殉節の碑

長岡藩士殉節の碑文

永遠に留めたい
殉節の碑ですね。

一箕山八幡神社

一箕山八幡神社

戊辰戦争の時、この境内で、
会津藩国産奉行・河原善左衛門は、
一族の者たちと
壮絶な戦死を遂げました。

彼は会津藩では数少ない恭順派。

小田山の地図

小田山の地図

パーキング近くにあった地図

小田山入口

小田山入口付近

車から下車して、
さぁ、これから小田山ハイキング!

新緑が眩しい!

柴五郎墓所

柴五郎墓所

小田山の西軍砲陣跡へ
行く途中に、右側を
やや下りると、柴家の墓所。

合掌!

小田山西軍砲台跡

小田山 西軍砲陣跡より

この地に立つと、
鶴ヶ城が、中央やや左に
聳えています。

砲台を設けるにあたり
この地を西軍に知らせた
極楽寺の僧は、
会津藩士・武田宗三郎により斬殺。
武田もまた、斬刑に。

佐川官兵衛の歌碑

佐川官兵衛の歌碑

雲水に心はまかせ 澄む月の
法の鐘と世をやわたらむ

秀長寺にて。

秀長寺山門

秀長寺正門

平成25年に訪問。
NHK大河ドラマ「八重の桜」放映中。

ここは、「材木町の戦い」の
激戦が展開された所で、
佐川官兵衛、大奮闘し
勝利しました。

当方が訪問した折は、
写真のように閑かでした。

秀長寺案内板

秀長寺古戦場案内板

佐川官兵衛ファンなので、この案内板
是非にも読みたかったのですが、
ご覧のように、判読不可。

悲しくなって、会津若松市観光協会に
「読めるようにご配慮を」と
メールしました。
以下のご返事を頂戴。

「秀長寺の解説板について
現状と所有者を確認の上で 管轄する部署
と相談させていただきます」

光明寺

光明寺

会津若松市門田町一ノ堰にある寺。
山本八重の父・権八が眠ります。

閑かな佇まいで、
「八重の桜」の幟がたっていました。

山本権八墓所

山本権八墓所

光明寺にある新島八重の父・
山本権八の墓。左から2つ目。
最左は、会津藩家老・一瀬要人の墓

「一ノ堰の戦い」で
落命された方々の
墓が並びます。

合掌!

鶴ヶ城 鐘撞堂 鶴ヶ城 鐘撞堂

時刻を報らせる、会津時守。
戊辰戦争時下においても、
一切ひるむことなく、時を報じ続け、
城内の同胞を大いに励ましたとか。

被弾し、相次いで斃れるも、
鐘声の絶えることなく
開城まで鳴り響いたとのこと。

会津武士の意地と誇りを、
満天下に示した鐘撞堂。

鐘撞堂説明

鶴ヶ城 鐘撞堂説明

鐘撞堂の近くにある説明文

武者走り

武者走り

石垣の階段がV字になっています。
緊急時、
機動力を充分に発揮できるように
考案された設計とか。

状況に応じて、上りが右から
下りが左からといったような
使い方もされたとのこと。


武者走り説明

武者走り説明板

写真のような説明板が
設置されておりました。

建福寺

建福寺

戊辰戦争で長岡を追われた
藩主・牧野家一族の
会津避難先

会津塩沢で斃れた
河井継之助は、ここに
仮埋葬されています。

建福寺説明

建福寺シダレ桜説明

建福寺の古木・シダレ桜や
寺の説明板。

 

蚕養国神社

蚕養国神社

文字通り“養蚕”の神様を祀ります。
日本に唯一の名前を冠する神社とか。

戊辰戦争時には、
桑名藩の立見鑑三郎ら
雷神・致人・神風隊の面々が
この地で激戦を繰り広げました。

そして、桑名藩藩主・松平定敬が
会津を離れ北上したことを知り、
鑑三郎ら桑名藩士が、
会津を後にした場所でもあります。

素敵なお守りを購入しました。

甲賀口門跡

甲賀町口門跡

城下に16ヶ所ある郭門の一つ。
郭門の内側は侍屋敷、外側は
町人などの居住区でした。
甲賀町口郭門は、
大手門として高石垣がつくられ、
他の郭門よりも厳重な構えとか。

この界隈は、
戊辰戦争の激戦区でした。
滝沢峠を越えてきた
新政府軍と激突し、
田中土佐、神保内蔵助らは
「応戦不可」と土屋邸で自刃します。

甲賀町口門跡の説明

甲賀町口門跡の説明

写真は、上記郭門の説明板。

実際目の当たりにして、
郭門の大きさに驚きました。
スゴイ!の一言。

興徳寺正門

興徳寺正門

蒲生氏郷の墓所としても
有名ですが、 戊辰戦争の時は、
桑名藩藩主・松平定敬の
宿舎となった寺です。

また、秋月登之助の
墓所でもありますが、
詳細は以下の写真にて。

興徳寺の幕末余聞

興徳寺の幕末余聞

説明文のママにて。

西郷頼母邸

西郷頼母邸

北出丸に近く
内藤邸と道を挟んで
住まいされていたようす。

西郷頼母の一族、
壮絶な最期で言葉がありません。

なよたけの 風にまかする身ながらも.
たわまぬ節は ありとこそきけ

内藤介右衛門邸宅跡

内藤介右衛門邸宅跡

大手門前にありました。
筆舌に尽くしがたい
一族の殉難を想起します。

 

日新館入口

会津日新館入口

私が訪問した日も
地方から修学旅行の学生が
大勢見学にみえており
活況を呈していました。

日新館 大成殿

大成殿

保科正之の時代に
山崎闇斎からの献上品・孔子像を
安置してあります。

垂加神道を信奉していた
会津藩を「朝敵」となした
薩長主導による戊辰戦争蜂起は、
何を物語るのであろうか?

日新館 素読所

素読所

日新館内の
素読書の勉強風景(一部)

日新館 水練水馬池

日新館・水練水馬池

日本最初のプールとか

会津藩士が向井流水法を
学んだ池を再現。

甲冑を身につけての
泳法も学んだとか…。
スゴイですね。

 

如来堂古戦場

如来堂古戦場

母成峠で敗れた新選組は、
北へ向かう土方歳三と
会津に留まらんとする
斎藤一らに分かれました。

明治元年(1868)9月4日、
城下に進出した新政府軍と、
如来堂に立て籠もる斉藤等
新選組が激突。

現在は会津郊外に、
そのままに佇んでいます。

善龍寺正門

善龍寺正門

西郷頼母の菩提寺

西郷頼母墓所

西郷頼母墓所

戊辰戦争最中から、
アッチコッチの移動、
そして戦後の移住幾たび。
しかし終の棲家は
妻・千恵子の眠る所となりました。

合掌!

西郷頼母墓所説明

墓石の傍の碑文

写真のままに。

長命寺正門

長命寺正門

戊辰戦争の激戦地でもあり、
佐川官兵衛率いる会津軍と
政府軍が激突し、
多数の死傷者をだします。

境内には、
会津兵士145名の墓があり、
築地塀には
当時の弾痕が残されています。

長命寺の弾丸の跡(レプリカ)

長命寺の築地塀

戊辰戦争の弾痕として
あまりにも有名になった
長命寺の築地塀

レプリカとのこと。
実際は、
「凄まじき弾痕」であったらしい。

長命寺 戦死者の墓

会津藩士戦死者の墓石碑

この長命寺には
「戦死墓」とだけ記された
墓所があります。

この地を訪問すると、
戊辰戦争をとても身近に
感じられてしかたがない…。
140年、150年の歳月が
凝縮されている。

高瀬の巨石

高瀬にある巨石

写真の石は、下の写真が
説明してくれます。

上杉景勝、直江兼続の無念が
伝わってきそうな巨石です。

巨石の説明

巨石の説明板

写真参照

高瀬の大木

高瀬の大木

会津郊外の
高瀬の大木の夕景

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