![会津西街道](img/aidu_nisi/aidu_nisi.gif) |
戊辰戦争でも、白河口の戦闘より、
若干、メジャー感が低いのですが、実際訪問してみると
興趣をおぼえる箇所が多多あります。
特に、鬼怒川藤原地区がそれ。東軍が勝利した故でしょうか…。 |
![田島陣屋跡](img/aidu_nisi/tajimajinyaato.jpg) |
田島陣屋跡
北進した大鳥圭介と南進の山川大蔵が
この地にて、会幕連合軍結成を行い
今後展開されるであろう
「日光口戦闘」の軍議を開きました。
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![龍福寺](img/aidu_nisi/ryufukuji.jpg) |
龍福寺
会津西街道沿いにある
龍福寺。
ここに芸州藩は、宿営したとのこと。
芸州藩士の、襖に描いた落書きが有名。
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![会津西街道](img/aidu_nisi/nisikaido_kyudo.jpg) |
会津西街道の山王茶屋跡
写真の赤い矢印は、
日光街道・121号線を跨いで描かれているが、
これが旧道・会津西街道である。
121号線上で、赤矢印の左側部分に
山王茶屋があったのであろうか。
山川大蔵、大鳥圭介が
初対面でその後を語る姿が浮かぶ。
因みに写真左手は、会津方面。 |
![山王茶屋跡](img/aidu_nisi/sannotyaya_atoti.jpg) |
戊辰戦争後の山王茶屋跡
戊辰戦争で焼失した山王茶屋は
明治2年に再建されたとか。
その跡地が、写真中央、
右手に広がる更地部分。
奥会津博物館に移築された山王茶屋。
この地にあると、もっと歴史の深みを
感じられたのではないでしょうか…。
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![横川関所跡](img/aidu_nisi/yokokawasekisyo.jpg) |
横川関所跡
観音堂と同じ場所にある横川関所は、
保科正之により糸沢(現南会津町)から
横川宿に移されたとか。
(山王峠を越えたんですね…)
かつて関所付近で村人が
盆踊りしたことが
会津藩の知る所となり、
責めを負い切腹したという
「清水伝左衛門」の墓地がこの一角にある。
「義に過ぐれば固くなる…」
領民に平和を!
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![妙雲寺本堂](img/aidu_nisi/myounji.jpg) |
塩原・妙雲寺
旧幕府軍の形勢が不利になると、
会津軍や凌霜隊などが、
塩原を焼き払おうとしました。
妙雲寺も焼き払われるところでしたが、
凌霜隊などの尽力で、
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印を
つけることで焼失を免れたとか。
訪問した当日は、法要の読経があり、
残念ながら本堂天井は見学不可。
(現在、天井の見学が不許可との風聞も…) |
![和泉屋](img/aidu_nisi/izumiya.jpg) |
塩原・和泉屋
凌霜隊が滞陣した、現在の和泉屋。
塩原口撤退にあたり、「戦の定め」・
「焼払い」が命じられる。
しかし、世話になった和泉屋を
焼払うことも出来ず、結果、
和泉屋の解体作業、
家財などの運び出しを
凌霜隊は手伝って、去ったといいます。
凌霜隊が塩原に滞陣すること3ヶ月ほど。
痛恨の放火だったでしょう…。
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![五十里湖](img/aidu_nisi/ikariko.jpg) |
五十里湖
五十里宿は湖底に沈んだが、そこは、
大鳥圭介が、会津藩領入りを
萱野権兵衛に申し入れた所でもあります。
大鳥の萱野への懇請のくだりは、
『七年史』に詳しいです。
結局、大鳥の入境は認められました。 |
![あさやホテル](img/aidu_nisi/asaya.jpg) |
あさやホテル
鍋島鷹之助率いる隊が
4ポンド山砲を据えて、
現・あさやホテルの位置から
対岸の小原陣地辺りに向かって砲撃。
しかし、地形錯雑として、結果
盲撃ちだったと言われている。
この時の戦は、東軍の戦略勝ちで、
鍋島鷹之助は、
這々の体で逃げ帰ったとか。 |
![鬼怒川戊辰公園](img/aidu_nisi/kinugawa_bosinkoen.jpg) |
鬼怒川戊辰公園
「小原沢の戦い」の激戦地は
今、公園と化しました。 |
![鬼怒川戊辰街道](img/aidu_nisi/kinugawabosinkaido_toro.jpg) |
鬼怒川戊辰街道
6月26日の藤原戦で
激戦地となった小原沢は
「鬼怒川戊辰街道」として整備されました。
戦闘に関する説明板や
慰霊碑が建てられており、
近くの帝釈堂には
東軍の塹壕跡も残っています。 |
![小原沢の戦い](img/aidu_nisi/obarazawa_setumei.jpg) |
小原沢の戦い
小原沢の地形が
東軍を有利に導いてくれたようです。
敵軍を引き付け、「射つ」が
功を奏した戦法であったとか。
錯雑な地形では、
アームストロング砲の本領発揮も
困難を極めたのでは…。
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![大原村の戦い](img/aidu_nisi/ooharamura_tatakai_setumei.jpg) |
大原村の戦い
東軍は、この戦いで
苦戦を強いられました。
退却しての小原沢の戦勝は、
「地の利」を味方にした「雪辱戦」か。 |
![帝釈堂階段](img/aidu_nisi/taisyakudo_kaidan.jpg) |
帝釈堂階段
この階段を上って
左手に帝釈堂があります。
その拝殿、左手斜面に
塹壕跡が。 |
![帝釈堂にある塹壕](img/aidu_nisi/taisyakudo_zango.jpg) |
藤原地区 塹壕跡
上記塹壕跡が左の写真です。 |
![弾除けの松](img/aidu_nisi/tamayoke_matu.jpg) |
弾除けの松
初代の松は平成8年7月、
当地を襲った突風により倒れたとのこと。
2代目松が、
後方に控えて、順調に生育しているようす。
この松の蔭で
アームストロング砲などの
弾を除けたとか…。
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![弾除けの松二世](img/aidu_nisi/tamayokematu_setumei.jpg) |
「弾除けの松」説明 |
![仲附の宿](img/aidu_nisi/nakatuke_hatago.jpg) |
仲附の宿
仲附とは、「会津西街道での物資輸送業者、
またその組織」と辞書には記されています。
幕末、藤原宿には五軒の仲附宿があり、
この宿は「加登屋」という屋号とか。
常時十人前後の仲附が宿泊していたとのこと。
往時を知る貴重な史跡ですね。 |
![小佐越の駅](img/aidu_nisi/kosagoe_eki.jpg) |
小佐越の駅
この駅界隈も、
戊辰戦争では、激戦地であったとか。
小佐越での
矢野原与七の「心苦雑記」では、
大鳥圭介を評して
「軍議因循之事」としています。
戊辰戦争を学び始めて
初めて知った土地名であったことも手伝い、
写真にどうしてもおさめたかった…。 |
![来迎寺参道](img/aidu_nisi/raigoji_sanmon.jpg) |
来迎寺
日光市にある、
旧・森友村名主・齋藤嘉兵衛の墓所である。
写真は、その山門
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![斎藤嘉兵衛墓所](img/aidu_nisi/saito_syoya_haka.jpg) |
齋藤嘉兵衛の墓所
慶応4年(1868)7月26日、
幕府軍に兵糧を提供したとして、
齋藤嘉兵衛は西軍(佐賀藩兵)に斬首されました。
私の訪問当日は雨でしたが、
家人のご案内で、
参拝することができました。
合掌! |
![斎藤家心情](img/aidu_nisi/saito_syoya_setumei.jpg) |
森友村名主のご子孫の言葉
ご子孫の方の
「無念」の思いが
沸々と迫ります。 |
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![](img/modoru_btn.jpg) |
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