有岡城を皮切りに、神戸、そして三木城など、足早の
史跡巡りをしました。
この地で、荒木村重の信長への「謀反」に関して、新説を拝聴できる機会を得ました。

有岡城跡

JR伊丹駅の真ん前に
この有岡城がありました。
明治になり、JR伊丹駅は
有岡城の主郭部半分を
削り掘って設置されたとか。
城から駅を見下ろす感じでした。

有岡城の石垣

有岡城の残存遺構・石垣部分。
他にも土塁、井戸などがあるようです。

荒木村重の説明板

説明板の中の
「信長方へ戻るため」という部分は、
説が分かれるところではないでしょうか?
村重が、信長への謀反を鮮明にすると、
小寺政職は、則、彼に呼応しています。

結果は、小寺政職の御着城も落城し、
彼は鞆の浦に逃亡。
官兵衛は政職の息子・氏職を
客分として召し抱えました。

写真の上をクリックすると
拡大写真が表示されます。

有岡城の説明

写真は、
有岡城主・荒木村重を史料を駆使して、
「通説への反撃」を熱心に語って下さった
ボランティアの方です。

小和田哲男氏監修の本・
「豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛」  の一論文も執筆されておられます。
荒木村重に対する熱烈さに
圧倒されました。

歴史を熱く語れる方の出会い、
当方にはまさに奇遇でした。
その節は、有り難うございました。

花隈城跡

天正8年(1580)信長の部下・池田恒興に
攻められ落城する。

荒木村重は、有岡城から尼崎城そして、
この花隈城へ移った後
毛利氏を頼り尾道に。
信長の死を知った後は、戦うことを止め、出家。
堺で茶人として千利休などと交友。

殺戮の多い信長とは、
相容れぬものがあったのでは…

高田屋嘉兵衛顕彰碑

竹尾稲荷神社境内にある、
高田屋嘉兵衛顕彰碑です。

神社前の道を挟んだ向かい側に
彼の本店跡の石碑があります。

司馬遼太郎の「菜の花の沖」が
思い起こされます。

私評:
「勇気」ある方で、大好き人物の一人です。

大輪田泊の石椋(いわくら)

写真右手にあるのが、それ。
石椋は港湾施設の資材の1つで
防波堤や海岸侵食を防止するための突堤など
に使用されていたとか。

この古代の石椋、重機も無い時代に
どのようにして運ばれたんでしょう。

三木城・本丸井戸の説明

この井戸の写真は
下に掲載いたしました。
結構大きな井戸です。

本丸井戸

井戸は金網で被われており、
中の拝見は不可。

秀吉の「三木城兵糧攻め」の舞台は
城主・別所長治の自害で終結。
城跡には、別所氏の
騎馬姿の像がありました。
草木が繁茂しており、
人影もマバラ。
眼下には
現在の三木市が一望。

 

竹中半兵衛墓所付近

10月後半、朝靄の中、念願だった
竹中半兵衛の墓参が叶いました。

直ぐ傍まで、車で行けるので、
何方でも、何時でも墓参が可能です。

竹中半兵衛墓所

突然の参拝でしたが、
墓前にはきれいな供花もありました。
地元の方の
心遣いなのでしょうか?

半兵衛さんは時空を超えて
慕われる御仁ですね…

竹中半兵衛の墓所説明

著名な方なので説明不要と
思われますが、
墓所傍にあった案内板です。

写真の上を
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