![](img/tomonoura_hoka/bittyu_fukuoka_tomonoura.gif) |
下関への途次、黒田官兵衛曾祖父・黒田高政の墓所のある備前福岡、
備中境目七城の庭瀬城、撫川城、そして高松城水攻めの時のその取水口跡、念願の鞆の浦と、
少々広範囲に欲張りな史跡巡りを楽しみました。 |
![](img/tomonoura_hoka/takamasa_hakasyo.jpg) |
黒田高政墓所
黒田官兵衛の曾祖父・高政の
墓所が、瀬戸内市長船町にありました。
妙興寺という寺です。
趣のある古刹でした。 |
![](img/tomonoura_hoka/okiie_hakasho.jpg) |
宇喜多興家の供養塔
妙興寺には期せずして、
宇喜多直家の父・宇喜多興家の
供養塔がありました。
1536年頃に建立されたもののようです。
年代を感じますね。 |
![](img/tomonoura_hoka/fukuokano_itiato.jpg) |
「福岡の市」跡
ここ福岡は、中世には
山陽道随一と云われた商都で、
写真のような「市」が
できたのでしょうね。
一遍上人は遊行の途次、
賑わいの中で、
辻説法をされたのでしょうか…
イメージが湧きます。
ここ長船町は
刀剣の里でもあるようです。 |
![](img/tomonoura_hoka/takamatu_syusuikuti.jpg) |
高松城水攻め
足守川取水口
水攻めのための築堤は東南約4km。
水攻めの発案者に関して、
様々な説があるので、
記載は、遠慮します。
写真の場所は、
足守駅のすぐ近くにありました。
城主・宗治は名を残しました。
清水宗治辞世の句
浮世をば 今こそ渡れ 武士の
名を高松の 苔に残して |
![](img/tomonoura_hoka/niwasejo.jpg) |
庭瀬城
備前、備中の国境地帯に、
「備中境目七城」と称された
七つの城がありました。
北から、宮路山城、冠山城、備中高松城、
加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城
その主城が「備中高松城」。
山陽寄りに、
写真の庭瀬城があります。
元々は、下段で紹介する撫川城と
一体の城だったようです。 |
![](img/tomonoura_hoka/natukawajo.jpg) |
撫川城
広域の庭瀬城を分割してできた
お城のようで、
庭瀬城の近くにありました。
私評:
七城を全部巡りたかった… |
![](img/tomonoura_hoka/masuyaseiemon.jpg) |
鞆の浦・
桝屋清右衛門宅
「いろは丸事件」で、
坂本龍馬と海援隊士が宿泊した所。
龍馬は階段のない2階の隠し部屋に
宿泊したようす。
私が訪問したのは、
火曜日で、
その部屋を拝見できませんでした。
無念! |
![](img/tomonoura_hoka/masuyaseiemon_price.jpg) |
龍馬の隠れ部屋
桝屋清右衛門宅の
龍馬の隠れ部屋を
拝見出来なかったので
関連性はないのですが、
料金表を写真に。
残念でした… |
![](img/tomonoura_hoka/ootake_juutaku.jpg) |
太田家住宅
鞆の浦にあるこのお宅は、
あの幕末の七卿落ちの
面々が長州へ下る途中に宿泊。
建物は、主屋や醸造蔵など
9棟からなり、敷地の四方は
道路で囲まれています。
サスガ!の言葉が似合う旧家。 |
![](img/tomonoura_hoka/ootake_setumei.jpg) |
太田家住宅説明板
文字通りです。
ご参考までに。 |
![](img/tomonoura_hoka/uoya_manzo.jpg) |
魚屋萬蔵宅
いろは丸事件の
交渉場所となった一つ。
時の流れで
取り壊しの危機に遭遇。
しかし、町の人達の熱意で、
旅館兼店舗ということで、
再生しているとのこと。
明治はやっぱり
遠くなっているのでしょうか… |
![](img/tomonoura_hoka/taityoro_hata.jpg) |
福禅寺 対潮楼
上記したいろは丸事件の
交渉場所でもありました。
また、この寺の対潮楼は、
至上の景観を呈するとして
1711年、朝鮮通信使の李邦彦から
「日東第一形勝」と、
賞賛を得ています。
その景観は
下記の写真です。
対潮楼からの
眺めの一部です。
|
![](img/tomonoura_hoka/taityoro_kesiki.jpg) |
弁財天福寿堂と仙酔島
奥の大きい島が仙酔島。
対潮楼の畳に座していると、
広やかな心地に浸されます。
瀬戸内海を左に、
山陽道をドライブしていると、
大小様々の島々が眺められ、
宮城の松島とはまた一味違う
景色に魅せられました。
旅はいいです… |
![](img/tomonoura_hoka/enpukuji.jpg) |
円福寺
とても静まりかえった古刹です。
いろは丸事件の時、
紀州藩の宿舎となった所。
円福寺が建立される(1610年頃)前は、
大可島城(たいがしまじょう)があり、
村上水軍の一族・村上亮泰が在城。
時が移り、
城はやがて市街地へ。
毛利元就の命で「鞆要害」、
福島正則の命で「鞆城」と変遷を
重ねていったようです。 |
![](img/tomonoura_hoka/tomojo_isigaki.jpg) |
鞆城石垣
半端な写真になり
すみません。
鞆城の石垣は、
下段の写真の方が
広範囲に見渡せて
納得して頂けると思います。 |
![](img/tomonoura_hoka/tomojo_isigaki1.jpg) |
鞆城石垣
鞆城はやはり
高台に建てられているので、
登るのにフーフー。 |
![](img/tomonoura_hoka/tomojo_kesiki.jpg) |
鞆城跡からの
鞆の浦港の眺め
高台に位置しているので、
写真のような俯瞰。
瀬戸内海に面しているので
海も静かですね。
宮城道雄の
『春の海』のイメージ、
納得です。 |
![](img/tomonoura_hoka/tomojo_setumei.jpg) |
鞆城のこと
足利義昭は毛利を頼り、
鞆城に6年程滞在しています。
この間、信長追討の御内書を
各地の大名に発しています。
しかし、敵たる信長、
本能寺の変で斃れます。
その後、秀吉との接近をはかる
毛利と義昭の関係は冷却したとも。
後に義昭は、秀吉の御伽衆となり
1597年8月、生を終えます。
残された鞆城、
1615年の「一国一城令」により
取り壊されたとか… |
![](img/tomonoura_hoka/tomonoura_minato.jpg) |
鞆の浦の観光名所
左端に常夜燈、
そして白壁の
いろは丸展示館。
その右隣の
コーヒーショップで
私は一休み。 |
![](img/tomonoura_hoka/tomonoura_roji.jpg) |
鞆の浦の路地
懐かしい路地に
遭遇したような…。
味わいのある散策が
楽しめるのですが、
車は町の入口で
待機させるのが賢明でしょうか。 |
![](img/tomonoura_hoka/sikanosuke_kubiduka.jpg) |
山中鹿之助の首塚
尼子のお家再興をめざす
山中鹿之助は、毛利家打倒のため
織田信長の支配下にはいって奮戦。
しかし、上月城の戦いで
毛利方に捕らえられ
護送途中で殺害されます。
その後、鞆城にいた
足利義昭のもとへも運ばれ、
首実検の後、
この地に埋葬されたとか。 |
![](img/tomonoura_hoka/tomonoura_yukei.jpg) |
鞆の浦港の夕景
史跡には全く関係ありませんが、
鞆の浦の夕景があまりにも
ステキだったので…、
思わずワンショット! |
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