琵琶湖周辺は古来より、京に近いこともあり、
史跡は周辺に散在しています。
今回は、その右岸、とりわけ北方エリアを巡りました。

姉川の合戦の案内板

「姉川の戦い」の行われたのが国道362号線。姉川を渡る野村橋の麓に掲示されています。
現在の川幅は200mほどだが、当時は多分、
渺々たる河原のみの
世界ではなかっただろうか?

姉川合戦布陣図

上記の案内板の近くに
掲示されていました。

元亀元年6月28日午前6時頃、
徳川軍と朝倉軍の戦いの火ぶたが切られ、
これを合図に、織田軍、浅井軍の
激突も始まり、姉川合戦の展開。

家康は押され気味の局面を打開するため、
榊原康政に命じて姉川の川下から迂回させ、
朝倉軍の側面から奇襲攻撃をかける。

優勢だった朝倉軍の
崩壊の始まりであった。

姉川古戦場跡

写真、矢印の石碑は、
死者の慰霊であろうか。

下記の写真がその石碑である。

姉川戦死者之碑

死者は浅井朝倉方で1800人、
織田徳川方で800人
負傷者は各方その3倍と推定されている。

合戦場付近の「血原」「血川」という地名が
この合戦の激しさを伝えていようか…。

姉川古戦場

季節は春。
菜の花が満開でした。

「時」がこの戦場を
歴史の彼方へ…。

小谷城跡絵図

字が小さくて読みにくいですが、
小谷城とは、山の尾根伝いに
配置された山城なんですね。

中程に「赤尾屋敷」と
明記されていますが、そこが
浅井長政の自刃の地です。

小谷城址

尾根伝いの中程にある
小谷城址の碑

首据石

黒金門(くらがねもん)の手前にあります。
天文2年(1533)六角氏との合戦の時、
京極氏の重臣であった今井秀信が
敵方に内通したことで神照寺で打ち首にし、
その首をこの石の上に置き
見せしめにしたといわれています。

赤尾屋敷跡

織田信長に敗れた長政は
本丸に入れず、赤尾の屋敷で
自刃してしまいました。
1573年(天正元年)9月1日。
享年29歳

黒田藩の黒田家

黒田官兵衛の始祖は、
右の由来にもあるように、
琵琶湖畔の木之本町に住んでいた。
その構屋敷に掲示されてあった
説明板である。

黒田屋敷の碑


右の写真は、木之本町の
構屋敷に建つ碑である。

黒田家の故郷

黒田藩の発祥の地全景
(木之本町にて)

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