「萩・津和野」のツアーというと、松陰神社と武家屋敷町が定番のよう。
翻って、私は、と言いますと、筆頭「萩反射炉跡」
長州藩は、反射炉製造にあたり、佐賀藩に教えを請うも拒絶され、結果、完成を見ることはなかったような…。
萩、津和野は予想以上に閑静な街でした。

萩城趾

晩秋の季節を映してか、
写真のように、静寂が漂い、
鳩が遊んでいました。

関ヶ原の戦いの結果、
広島から萩へ移動の長州藩、
心情、察するにあまりあります…

毛利輝元公像

萩城へ踏み入れると、
直ぐに、目に止まりました。

旧厚狭(アサ)毛利家
萩屋敷長屋

萩城駐車場の直ぐ傍にあります。
厚狭毛利家は、
毛利元就の5男・元秋を
祖としています。

主屋などは維新後に解体し、
写真のように長屋だけが、
残っていました。

長州藩旧藩校跡

5代藩主・毛利吉元によって
享保3年(1718)に創建された
藩校明倫館の跡地

その後、嘉永2年(1849)、
14代藩主・毛利敬親が
藩政改革に伴い規模を拡大し
萩城下江向へ移転。

旧明倫館跡の説明

長州藩の藩校創建は
全国的に見ても
早期ではないでしょうか?

旧明倫館前の路

萩は、城下町であったことを
彷彿とさせる
写真のような路地が
処々散見されます。

久坂玄瑞生家跡

玄瑞の生家跡には
誕生地を示す石碑が建ちます。
天保11年(1840)にこの地で誕生。
この一角には三条実美が
久坂玄瑞偲び詠んだ
石碑が立っています。

「九重のみはしのちりを…」
に始まるこの歌、
少々鼻白む思いです

玄瑞生家跡に建つ説明板

武市瑞山の使いで、
久坂の元にやってきた龍馬。
彼から吉田松陰の
「草莽崛起」論を耳にします。
2ヶ月強後には、
龍馬は土佐を脱藩。

久坂の龍馬への影響「大」と
いったところでしょうか?

写真上をクリックすると
拡大写真が表示

高杉晋作誕生地

敷地内には、晋作ゆかりの
産湯の井戸などの
当時の面影も…。

この生誕地の前に佇むと
晋作よりも
妻・まさが浮かんできます。

萩城下の武家屋敷通り

江戸時代のままでは?と
錯覚するほどの路地が
萩市内には処々、散見されます。

写真は高杉家前の通りです。
晩秋でもあったせいか、
人通りが少ないです…

菊屋家住宅

萩藩の豪商であった菊屋家住宅。
この商家の主屋・本蔵・金蔵・米蔵
などは、重要文化財の指定を
うけているとか。

どちらの藩にも
豪商と呼ばれる方が、
いたんですね…。
「経済は暮らし」

田中義一宅跡

この方への評価は
いろいろですね。

高杉晋作の生家跡と
比較的近いです。

田中義一説明板

そのままに…

萩城城下町

写真のような
城下町旅情を
満喫できる萩市でした。

岩倉獄跡

藩政時代の獄屋敷の一つで、
他に下段の写真・野山獄もありました。

岩倉獄は下牢として庶民を収容。
吉田松陰の従者・金子重輔は
岩倉獄に投じられました。

後に彼はこの岩倉獄で
病没しています。

野山獄

道を挟んで、
岩倉獄の反対側にありました。

吉田松陰は
下田密航事件の後、
この野山獄に収容されます。

藩内の論争に際して
高杉晋作をはじめ多くの志士が
繋がれた所でもあります。

野山獄跡説明

当地に設置されていた
説明板です。

藩校・明倫館

1718年(享保3年)、
萩藩6代藩主毛利吉元が
萩城三の丸追廻し筋に
創建したのが、藩校の始まり。
(前出写真・旧明倫館跡地)

1849年(嘉永2年)、
14代藩主毛利敬親が
藩政改革に伴い
拡大移転したのが、左写真。
現在の明倫小学校の地。
写真の建物は昭和10年竣工。

明倫館址の石碑

明倫小学校の
校門前に小さく建てられています。

前原一誠旧宅

旧宅は当時のままで現存。
外観のみ見学可
(個人所有のため、
敷地内には入れない)

松本川を挟んで、
やや南東寄りに、
松陰神社があります。

 

前原一誠墓所

彼の旧宅からほど近い、
弘法寺に眠っています。

情実溢れる方では
なかったのでしょうか?

悲しい結末を迎えました

合掌!

伊藤博文旧宅

松陰神社の近くに位置している、
垣に囲まれた質素な建物です。

伊藤博文は14才の時に、
この家に移り住んでいるとか。
生家ではないんですね。

彼は横浜の金沢にも別邸を所持
していました。
今は横浜の管理下にあるようです。
参考にURLを記します。
http://park.hama-midorinokyokai.or.jp/hakubuntei

 

萩藩・反射炉跡

反射炉の操業に成功していた
佐賀藩に藩士を派遣し、
鉄製大砲の鋳造法伝授を
申し入れますが拒絶されます。
しかし、反射炉のスケッチのみは
許可されます。
独自に立ちあげたのでしょうか?

萩藩の記録では、
安政3年(1856)に試験炉が
操業されたということだけ。

私見:
あの時期、やはり、佐賀藩の近代科学は
相当なものだったのでは…。
武雄領主・鍋島茂義は、高島秋帆に弟子入りして
西洋式砲術や科学技術を究めています。
天保12年(1841年)には、江川英龍が武雄を訪れ、
軍事教練及び大砲鋳造を見学。
鍋島茂義の偉業が、
改めて認識されるところです。

萩反射炉説明板

ご参考までに。

松下村塾

松陰神社の一角にある
松下村塾跡。
過激な志士たちが
育成されました。

決行あるのみ…
陽明学派だったのでしょうか?

 

松陰、幽閉の部屋

下田での海外渡航が失敗し、
最終的には、杉百合助宅(自宅)に
幽閉の身となります。
その場所が、左の写真。

玉木文之進旧宅

玉木文之進は、吉田松陰の父
杉百合之助の弟。

性格は謹厳、剛直。
明治9年(1876)の秋、
前原一誠の萩の乱が起こりますが、
乱を阻止出来なかったこと、
又、養嗣子・正誼(乃木大将の実弟)
など門弟が多く参加したことから
「自己の教育責任を、
一死以ってこれを償ふ」と言い、
自刃しました。享年66歳

吉田松陰生誕の地

玉木文之進旧宅の前の道を
右折して直進した
所にありました。

萩城下が一望できる景観が
待っていました。

吉田松陰産湯の井

この地で誕生したので、
やはり産湯の井戸なのでしょうね。

吉田松陰墓所

この墓所は松陰のみならず、
一族、あるいはその子弟の方々の
墓所のようです。
万延元年(1860)2月7日が
松陰没後100日にあたり、
杉家では百日祭を営みます。

その際、親戚、高杉晋作、
久坂玄瑞をはじめ在萩の門人の
ほとんどが出席し
故人の霊を弔い遺髪を埋葬したとか。
(一部「ぶらり萩あるき」サイトより)

吉田松陰墓所前の説明板

松陰の門弟や、
親類筋の方々の名が
記されています。

吉田稔麿誕生地

松下村塾の直ぐ近くにあります。
高杉晋作、久坂玄瑞などと共に
松門の四天王に数えられ、
松陰にも愛された塾生とか。

元治元年、池田屋事件で、
密議中に新撰組浪士に襲われ落命。

(落命やその場所については諸説あり)

津和野城

築城が1300年頃の山城。
江戸時代には津和野藩亀井氏の居城で
明治維新まで11代続きます。
藩庁は急峻な山城を避け
山麓に置かれたとか。

仰望写真なので、
城域が判然とせず、
スミマセン。

この城は、 結構高い位置にあるので、
直ぐ目に止まります。

津和野・殿町

津和野の写真といったら、
よく目にする殿町の
堀割の鯉。

この街沿いの喫茶店で小休憩。
お味は
ウッウ~ン、少々残念でした。

西周旧宅

旧宅の全景を写せなかったので
残念ですが、
中々広い旧家でした。

西周説明板

西家は御典医の家柄。
周は成績優秀で、
25歳の時江戸藩邸の教官に。
文久2年(1862)にオランダに留学し
幕末から明治維新にかけて
思想的に大きな影響を各方面に
与えたのではないでしょうか。

右写真の上をクリックすると
拡大写真が表示されます。

森鴎外旧宅

鴎外がこの旧宅に住んだのは、
わずか11年。
その後再び津和野にも、
この家にも訪れることはなかったとか。

しかし遺書に
「余ハ石見人森林太郎トシテ
死セント欲ス」の言葉を残します。

森鴎外旧宅の説明板

彼の旧宅の変遷が
語られています。

故郷の皆さんに
守られているんですね。

角島大橋

車のPRでお馴染みの
角島大橋。

史跡には無縁ですが、
この橋を渡ってみたく、
角島灯台公園まで
行ってきました。

曇天だったので、
写真が暗く、少々残念

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