![](img/hagituwano/hagi_tuwano_dai.gif) |
「萩・津和野」のツアーというと、松陰神社と武家屋敷町が定番のよう。
翻って、私は、と言いますと、筆頭「萩反射炉跡」
長州藩は、反射炉製造にあたり、佐賀藩に教えを請うも拒絶され、結果、完成を見ることはなかったような…。
萩、津和野は予想以上に閑静な街でした。 |
![](img/hagituwano/sigetujo.jpg) |
萩城趾
晩秋の季節を映してか、
写真のように、静寂が漂い、
鳩が遊んでいました。
関ヶ原の戦いの結果、
広島から萩へ移動の長州藩、
心情、察するにあまりあります… |
![](img/hagituwano/terumoto_dozo.jpg) |
毛利輝元公像
萩城へ踏み入れると、
直ぐに、目に止まりました。 |
![](img/hagituwano/asamourike_nagaya.jpg) |
旧厚狭(アサ)毛利家
萩屋敷長屋
萩城駐車場の直ぐ傍にあります。
厚狭毛利家は、
毛利元就の5男・元秋を
祖としています。
主屋などは維新後に解体し、
写真のように長屋だけが、
残っていました。 |
![](img/hagituwano/kyu_meirinkanato.jpg) |
長州藩旧藩校跡
5代藩主・毛利吉元によって
享保3年(1718)に創建された
藩校明倫館の跡地
その後、嘉永2年(1849)、
14代藩主・毛利敬親が
藩政改革に伴い規模を拡大し
萩城下江向へ移転。 |
![](img/hagituwano/kyu_meirinkanato_setumei.jpg) |
旧明倫館跡の説明
長州藩の藩校創建は
全国的に見ても
早期ではないでしょうか? |
![](img/hagituwano/hagi_bukeyasiki_1.jpg) |
旧明倫館前の路
萩は、城下町であったことを
彷彿とさせる
写真のような路地が
処々散見されます。 |
![](img/hagituwano/kusaka_seikaato.jpg) |
久坂玄瑞生家跡
玄瑞の生家跡には
誕生地を示す石碑が建ちます。
天保11年(1840)にこの地で誕生。
この一角には三条実美が
久坂玄瑞偲び詠んだ
石碑が立っています。
「九重のみはしのちりを…」
に始まるこの歌、
少々鼻白む思いです。
|
![](img/hagituwano/kusaka_seikaato_setumei.jpg) |
玄瑞生家跡に建つ説明板
武市瑞山の使いで、
久坂の元にやってきた龍馬。
彼から吉田松陰の
「草莽崛起」論を耳にします。
2ヶ月強後には、
龍馬は土佐を脱藩。
久坂の龍馬への影響「大」と
いったところでしょうか?
写真上をクリックすると
拡大写真が表示 |
![](img/hagituwano/sinsaku_seikaato.jpg) |
高杉晋作誕生地
敷地内には、晋作ゆかりの
産湯の井戸などの
当時の面影も…。
この生誕地の前に佇むと
晋作よりも
妻・まさが浮かんできます。 |
![](img/hagituwano/sinsaku_mae_tori.jpg) |
萩城下の武家屋敷通り
江戸時代のままでは?と
錯覚するほどの路地が
萩市内には処々、散見されます。
写真は高杉家前の通りです。
晩秋でもあったせいか、
人通りが少ないです… |
![](img/hagituwano/kikuya_jutaku.jpg) |
菊屋家住宅
萩藩の豪商であった菊屋家住宅。
この商家の主屋・本蔵・金蔵・米蔵
などは、重要文化財の指定を
うけているとか。
どちらの藩にも
豪商と呼ばれる方が、
いたんですね…。
「経済は暮らし」 |
![](img/hagituwano/giiti_seikaato.jpg) |
田中義一宅跡
この方への評価は
いろいろですね。
高杉晋作の生家跡と
比較的近いです。 |
![](img/hagituwano/giitisetumei.jpg) |
田中義一説明板
そのままに… |
![](img/hagituwano/hagi_joka.jpg) |
萩城城下町
写真のような
城下町旅情を
満喫できる萩市でした。
|
![](img/hagituwano/iwakura_goku.jpg) |
岩倉獄跡
藩政時代の獄屋敷の一つで、
他に下段の写真・野山獄もありました。
岩倉獄は下牢として庶民を収容。
吉田松陰の従者・金子重輔は
岩倉獄に投じられました。
後に彼はこの岩倉獄で
病没しています。 |
![](img/hagituwano/noyama_goku.jpg) |
野山獄
道を挟んで、
岩倉獄の反対側にありました。
吉田松陰は
下田密航事件の後、
この野山獄に収容されます。
藩内の論争に際して
高杉晋作をはじめ多くの志士が
繋がれた所でもあります。 |
![](img/hagituwano/noyama_goku_setumei.jpg) |
野山獄跡説明
当地に設置されていた
説明板です。 |
![](img/hagituwano/meirinkan_ima_tatemono.jpg) |
藩校・明倫館
1718年(享保3年)、
萩藩6代藩主毛利吉元が
萩城三の丸追廻し筋に
創建したのが、藩校の始まり。
(前出写真・旧明倫館跡地)
1849年(嘉永2年)、
14代藩主毛利敬親が
藩政改革に伴い
拡大移転したのが、左写真。
現在の明倫小学校の地。
写真の建物は昭和10年竣工。 |
![](img/hagituwano/meirinkan_ato.jpg) |
明倫館址の石碑
明倫小学校の
校門前に小さく建てられています。 |
![](img/hagituwano/issei_takuato.jpg) |
前原一誠旧宅
旧宅は当時のままで現存。
外観のみ見学可
(個人所有のため、
敷地内には入れない)
松本川を挟んで、
やや南東寄りに、
松陰神社があります。
|
![](img/hagituwano/issei_hakasyo.jpg) |
前原一誠墓所
彼の旧宅からほど近い、
弘法寺に眠っています。
情実溢れる方では
なかったのでしょうか?
悲しい結末を迎えました…
合掌! |
![](img/hagituwano/hirofumi_seikaato.jpg) |
伊藤博文旧宅
松陰神社の近くに位置している、
垣に囲まれた質素な建物です。
伊藤博文は14才の時に、
この家に移り住んでいるとか。
生家ではないんですね。
彼は横浜の金沢にも別邸を所持
していました。
今は横浜の管理下にあるようです。
参考にURLを記します。
http://park.hama-midorinokyokai.or.jp/hakubuntei
|
![](img/hagituwano/hagi_hansharo.jpg) |
萩藩・反射炉跡
反射炉の操業に成功していた
佐賀藩に藩士を派遣し、
鉄製大砲の鋳造法伝授を
申し入れますが拒絶されます。
しかし、反射炉のスケッチのみは
許可されます。
独自に立ちあげたのでしょうか?
萩藩の記録では、
安政3年(1856)に試験炉が
操業されたということだけ。
私見:
あの時期、やはり、佐賀藩の近代科学は
相当なものだったのでは…。
武雄領主・鍋島茂義は、高島秋帆に弟子入りして
西洋式砲術や科学技術を究めています。
天保12年(1841年)には、江川英龍が武雄を訪れ、
軍事教練及び大砲鋳造を見学。
鍋島茂義の偉業が、
改めて認識されるところです。 |
![](img/hagituwano/hagi_hansharo_setumei.jpg) |
萩反射炉説明板
ご参考までに。
|
![](img/hagituwano/syokasonjuku.jpg) |
松下村塾
松陰神社の一角にある
松下村塾跡。
過激な志士たちが
育成されました。
決行あるのみ…
陽明学派だったのでしょうか?
|
![](img/hagituwano/syoin_yuuheinoma.jpg) |
松陰、幽閉の部屋
下田での海外渡航が失敗し、
最終的には、杉百合助宅(自宅)に
幽閉の身となります。
その場所が、左の写真。 |
![](img/hagituwano/tamaki_bunnosintaku.jpg) |
玉木文之進旧宅
玉木文之進は、吉田松陰の父
杉百合之助の弟。
性格は謹厳、剛直。
明治9年(1876)の秋、
前原一誠の萩の乱が起こりますが、
乱を阻止出来なかったこと、
又、養嗣子・正誼(乃木大将の実弟)
など門弟が多く参加したことから
「自己の教育責任を、
一死以ってこれを償ふ」と言い、
自刃しました。享年66歳 |
![](img/hagituwano/syoin_seitanti.jpg) |
吉田松陰生誕の地
玉木文之進旧宅の前の道を
右折して直進した
所にありました。
萩城下が一望できる景観が
待っていました。 |
![](img/hagituwano/syoin_ubuyu_ido.jpg) |
吉田松陰産湯の井
この地で誕生したので、
やはり産湯の井戸なのでしょうね。 |
![](img/hagituwano/yosida_syoin_hakasyo.jpg) |
吉田松陰墓所
この墓所は松陰のみならず、
一族、あるいはその子弟の方々の
墓所のようです。
万延元年(1860)2月7日が
松陰没後100日にあたり、
杉家では百日祭を営みます。
その際、親戚、高杉晋作、
久坂玄瑞をはじめ在萩の門人の
ほとんどが出席し
故人の霊を弔い遺髪を埋葬したとか。
(一部「ぶらり萩あるき」サイトより) |
![](img/hagituwano/yosida_syoin_hakasyo_setumei.jpg) |
吉田松陰墓所前の説明板
松陰の門弟や、
親類筋の方々の名が
記されています。 |
![](img/hagituwano/yosida_tosimaro_seikaato.jpg) |
吉田稔麿誕生地
松下村塾の直ぐ近くにあります。
高杉晋作、久坂玄瑞などと共に
松門の四天王に数えられ、
松陰にも愛された塾生とか。
元治元年、池田屋事件で、
密議中に新撰組浪士に襲われ落命。
(落命やその場所については諸説あり) |
![](img/hagituwano/tuwano_siro.jpg) |
津和野城
築城が1300年頃の山城。
江戸時代には津和野藩亀井氏の居城で
明治維新まで11代続きます。
藩庁は急峻な山城を避け
山麓に置かれたとか。
仰望写真なので、
城域が判然とせず、
スミマセン。
この城は、
結構高い位置にあるので、
直ぐ目に止まります。 |
![](img/hagituwano/tuwano_tonomati.jpg) |
津和野・殿町
津和野の写真といったら、
よく目にする殿町の
堀割の鯉。
この街沿いの喫茶店で小休憩。
お味は
ウッウ~ン、少々残念でした。 |
![](img/hagituwano/nisi_amane_ie.jpg) |
西周旧宅
旧宅の全景を写せなかったので
残念ですが、
中々広い旧家でした。 |
![](img/hagituwano/nisiamane_setumei.jpg) |
西周説明板
西家は御典医の家柄。
周は成績優秀で、
25歳の時江戸藩邸の教官に。
文久2年(1862)にオランダに留学し
幕末から明治維新にかけて
思想的に大きな影響を各方面に
与えたのではないでしょうか。
右写真の上をクリックすると
拡大写真が表示されます。 |
![](img/hagituwano/moriogai_ie.jpg) |
森鴎外旧宅
鴎外がこの旧宅に住んだのは、
わずか11年。
その後再び津和野にも、
この家にも訪れることはなかったとか。
しかし遺書に
「余ハ石見人森林太郎トシテ
死セント欲ス」の言葉を残します。 |
![](img/hagituwano/ougai_takuato.jpg) |
森鴎外旧宅の説明板
彼の旧宅の変遷が
語られています。
故郷の皆さんに
守られているんですね。 |
![](img/hagituwano/tunosima_oohasi.jpg) |
角島大橋
車のPRでお馴染みの
角島大橋。
史跡には無縁ですが、
この橋を渡ってみたく、
角島灯台公園まで
行ってきました。
曇天だったので、
写真が暗く、少々残念 |
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