![](img/hakodate/hakodate_dai.gif) |
真冬の北国訪問は、天候が一番気になるところですが、
函館では、荒天でもなく、折々太陽も顔を出してくれる、まずまずの天候で、感謝すべきでしょうか…。
今回の写真掲載順は、ほぼ巡り順になっています。
市営の住吉町共同墓地に眠る雑賀重村、小池毅、石川啄木をお参りした折には、津軽湾も望む絶好日和でした。 |
![](img/hakodate/goryokakuato_hi.jpg) |
五稜郭跡
函館の五稜郭は、
単なる史跡に留まらず、
市民の憩いの場になっていて、
今尚、求心力のある場所と心得ました。
桜の季節などは、
見事なものです。 |
![](img/hakodate/goryokaku.jpg) |
五稜郭タワーからの風景
タワーからの
五稜郭全景。
改めて、
武田斐三郎の
偉業を感じ入る次第です。
|
![](img/hakodate/hakodatesenso_kuyou_hi.jpg) |
箱館戦争供養塔
箱館奉行所に向かう
入口付近に
この供養塔がありました。
戊辰戦争で
13,000余人とも言われる
死者を出したことに、
人智の限界を感じます。
龍馬ではないですが、緩慢ながらでも
武力ではなく、喧喧諤諤の論議を尽くし、
その上での、
御一新は成立したと考えますが、
これを読んで下さる皆様は
如何お考えでしょうか… |
![](img/hakodate/isaburo_hi.jpg) |
武田斐三郎顕彰碑
上記の石碑を過ぎて
間もなくに、この顕彰碑があります。
秀才ぶりが羨ましい限り…。
|
![](img/hakodate/bugyosho_isigaki.jpg) |
五稜郭の石垣
写真は、その石垣ですが、
函館山麓の立待岬から切り出した
安山岩や五稜郭北側の
山の石が使われているとか… |
![](img/hakodate/hakodate_bugyosyo.jpg) |
箱館奉行所(復元)
文久2年に建築工事が開始。
全て完成したのは、慶応2年。
明治4年、開拓使本庁舎は
札幌に新築され、奉行所庁舎などの
建物は解体されます。
平成22年に写真のような
往時の姿に復元されました。 |
![](img/hakodate/bugyosyo_setumei.jpg) |
箱館奉行所の説明板 |
![](img/hakodate/kamedajinja.jpg) |
亀田八幡宮
戊辰戦争終結の明治2年5月18日、
旧幕府軍の榎本武揚、大鳥圭介らが、
新政府軍の黒田清隆らと
降伏の誓約を交わした場所が、
ここ、八幡宮です。
五稜郭からは徒歩で、30分弱。
五稜郭のやや南西に位置しています。
写真は旧拝殿で、
現在、この写真左側に大きめの
新拝殿があります。
初詣や9月15日の例祭日には、
大勢の人で賑わうとか… |
![](img/hakodate/kameda_kofuku_hi.jpg) |
箱館戦争降伏式之地
2012年11月に、
刀をモチーフにした
「箱館戦争降伏式之地」記念碑が
有志によって建立されました
(題字は榎本武揚の曾孫・榎本隆充氏の揮毫) |
![](img/hakodate/kameda_dankon.jpg) |
亀田八幡宮の弾痕
建物の羽目板には、
箱館戦争戦闘の際の弾痕が残されていて、
激しさが窺い知れます。
この神社には、このような弾痕が
他にも何箇所か散見されました。 |
![](img/hakodate/bentendaiba_hi.jpg) |
弁天台場跡
武田斐三郎の設計により、
不等辺六角形の軍事要塞として、
江戸幕府が1856(安政3)年から
約8年をかけて築造。
箱館戦争時、旧幕府軍陣地であったが、
新政府軍の攻撃で
1869(明治2)年5月15日に降伏。
現在は函館どつくの敷地内に
写真のような杭が残るのみ。
(下方に掲出の地図写真を参照)
永井尚志、松岡磐吉が浮かんできます。 |
![](img/hakodate/saiwaizaka.jpg) |
幸坂(さいわいざか)
この坂道の最上部に
沢辺琢磨が婿入りした
山上大神宮があります。
また、箱館戦争時には、
桑名藩主・松平定敬の
御座所にもなっていたとか… |
![](img/hakodate/okinokuti_bansho.jpg) |
沖の口番所跡(松前藩)
江戸時代、松前藩は
藩財政を支える施策の一つとして、
船舶、積荷、旅人を検査して
規定の税金を徴収していました。
その役所・沖之口番所の跡。
現在は、
函館市臨海研究所になっています。 |
![](img/hakodate/peri_joriku.jpg) |
ペリー箱館上陸の地
この場所は、上記の
函館市臨海研究所の
すぐ側に位置しています。 |
![](img/hakodate/peri_kaikenjo.jpg) |
ペリー会見所跡
嘉永7年(1854)3月に
ペリーは、幕府との間に
日米和親条約を締結し、
その直後に5隻の艦船を引きつれ
箱館に入港しています。
ペリーはこの地の有力商人・
山田屋寿兵衛宅で、
松前藩家老松前勘解由らと会見。
また、市中の調査や、
港内測量などを行い、箱館をあとにしました。 |
![](img/hakodate/tatikawa_ke.jpg) |
太刀川家住宅店舗
明治34(1901)年、
米穀商・初代太刀川善吉により
建築された土蔵造り2階建店舗。
煉瓦造り漆喰塗りの不燃建築。
現在はカフェを営業しており、
この建物は、国指定重要文化財とか。
ペリー会見所跡の
すぐ近くにあります。 |
![](img/hakodate/nijimabasi_kara.jpg) |
新島橋からの函館港湾風景
「緑の島」に渡る新島橋からの
港湾の風景。
右手白い建物の黒い矢印は
「新島襄海外渡航の地碑」のある
場所になります。
中程左よりにあるのは
函館の赤レンガ倉庫群です。 |
![](img/hakodate/niijima_toko_hi.jpg) |
新島襄海外渡航の地碑
正面の石碑がそれです。 |
![](img/hakodate/niijima_toko_setumei.jpg) |
新島襄海外渡航の地碑の説明
新島襄の渡航は21歳。
まさに「青雲の志」
パワーに感服! |
![](img/hakodate/nijima_hi_tizu.jpg) |
新島橋界隈の現在地図
上掲の「渡航の地碑」近くにあった
地図を写真に。
万延元年の海岸線は
大分内側にあったんですね。
下の写真地図を参考にしていただくと
理解できると思うのですが… |
![](img/hakodate/manengannen_tizu.jpg) |
函館古地図
写真にあるように
万延元年の函館の地図です。
上掲地図の側に掲示されていました。
函館開港後の地図で
興味深いですね。
地図中の外国人居留地は、埋立で、
アメリカ人6、イギリス人3、
ロシア人1に貸渡したと
函館市史デジタル版に
記されています。
この外国人居留地は、
大町居留地と呼ばれていて
新島襄は、この居留地から
一路アメリカへ!
地図中の白い文字は,当方が入力 |
![](img/hakodate/hakodateyamakarano_fukei.jpg) |
函館山からの景観
函館港の西側部分
写真中の文字、記号類は
勝手に記させて頂きました。 |
![](img/hakodate/motoi_saka.jpg) |
基坂(もといざか)
海側を背にしての基坂。
正面の建物は
旧函館区公会堂
明治43年に建てられた
左右対称のコロニアルスタイルの建物。
往年を彷彿とさせる華麗な姿に
函館市民は
「元町のランドマーク」と呼称。 |
![](img/hakodate/syojutu_sirabesyo_ato.jpg) |
諸術調所跡
基坂を上り始めると間もなく、
右手にこの諸術調所跡が目に入ります。
教授は武田斐三郎で、
蘭学、測量・航海・造船・砲術・築城・
化学などを教えた実践重視の教育機関。
門人には、前島密(郵便制度創始者)、
井上勝(鉄道制度創設者)など
明治日本の牽引役を担った人々がいます。 |
![](img/hakodate/kouno_yakata_ato.jpg) |
宇須岸(うすけし)河野館跡
「函館の始祖」といった所でしょうか。
この地は、津軽の豪族・安東政季に従って
この写真の場所に移り住んだ
安東家臣・河野政通の
館跡でした。
その館が箱形だったので、
「函館」の地名もここから誕生。
この館は、やがてアイヌに襲撃され
一族は松前の方に移動してしまいます。
140余年の年月を経て、松前藩の誕生へと
歴史は進んでいきます… |
![](img/hakodate/peri_dozo.jpg) |
ペリー提督来航記念広場
安政元年、5隻の艦船を率いて
来航したペリー提督の姿を
忠実に再現したペリー銅像とか。
制作者は、函館出身で
ローマ在住の彫刻家・小寺真知子氏。 |
![](img/hakodate/igirisu_ryojikan.jpg) |
旧イギリス領事館
建築は大正2年。
昭和9年まで領事館として
使用される。
現在は開港記念館として
一般公開。
ティールームや売店も併設。
旧箱館奉行所の
やや坂下にあります。 |
![](img/hakodate/hakodate_koukaido.jpg) |
旧函館区公会堂
素敵な建物ですね。
明治40年の火事で焼失した町会所を
函館豪商・相馬哲平はじめ
市民の寄付で再建。
素晴らしい!
内部の装飾も豪華で、
国の重要文化財に指定されているとか…
手前側は旧箱館奉行所跡です。 |
![](img/hakodate/bugyosho_ato_hi.jpg) |
旧箱館奉行所跡(1)
現在は函館・元町公園になっています。
江戸時代以前からも
この界隈は函館中心地だったのでしょう。
函館港を見渡せる奉行所は、
見方を変えれば
海からの砲撃に無防備と
言う事になるのでしょう。
やや奥地となる五稜郭建築の理由も
この辺にもあったとか… |
![](img/hakodate/bugyosho_atoti_zenkei.jpg) |
旧箱館奉行所跡(2)
旧箱館奉行所跡を
西側から写してみました。 |
![](img/hakodate/motozaka_kara_hatimanzaka_miti.jpg) |
元町公園→函館ハリストス正教会へ
この通りは、函館の
観光メインストリートとでも
称せられる通りでしょうか。
しかし、冬季はご覧の通り。
道の向こうに
ハリストス正教会が待っています。 |
![](img/hakodate/sabou_kikuizumi.jpg) |
昼食(at 茶房菊泉)
上掲の道の中程にあった、
お店です。
古民家風で、
この写真を写した後ろは
囲炉裏がありました。
和風スパゲティを頂戴し、
おまけに調子づいて
お汁粉まで…
食べ過ぎですね。 |
![](img/hakodate/hatimanzaka.jpg) |
八幡坂
函館観光の
人気スポット!
この坂で、ロケも折々あるとか、
肯けますね。
本当に絵になる坂、と
見とれていました。
正面の船は
青函連絡船記念館・摩周丸、
その右手がJR函館駅。 |
![](img/hakodate/harisutosu_kyokai.jpg) |
函館ハリストス正教会
詳細については
サイトをどうぞ。
この教会に
幕末の沢辺琢磨を
思い出します。
彼は、武市端山の妻・富子と従弟で、かつ
龍馬の従弟だったんですね。
建物がエキゾチックで
ステキです。 |
![](img/hakodate/kamei_katuitiro.jpg) |
亀井勝一郎生誕の地
私たち年代は、受験の時
彼の評論文で悩まされました。
難解な文章で、しかし
味わいのある文章、懐かしいです。
ここ函館で誕生とのこと、
初めて知りました。 |
![](img/hakodate/gogoku_jinja.jpg) |
函館護国神社
箱館戦争での新政府戦死者を祀る
「招魂社」として、明治2年創建。
途中、神社の名称を変えながらも
昭和29年に
「函館護国神社」に。
赤が映えますね。 |
![](img/hakodate/gogoku_jinja_setumei.jpg) |
函館護国神社の説明 |
![](img/hakodate/gogoku_jinja_zaka.jpg) |
護国神社坂
護国神社を背に立つと、
写真のような風景が。
市電と直角に交わっています。
道幅の広さは
火防線としての役割も。
ふもとには、豪商・高田屋嘉兵衛の銅像が立ち、
その先をもう少し進むと
嘉兵衛の邸宅跡があります。
この坂、下りていきましょう! |
![](img/hakodate/takadaya_kahee_dozou.jpg) |
高田屋嘉兵衛の銅像
護国神社坂を下ってくると
写真のような嘉兵衛の
銅像に遭遇します。
銅像は、函館開港100年を
記念して、昭和33年に建立。
銅像のイメージはロシアの軍艦ディアナ号が
捕らわれのゴローニンを引き取るため、
箱館に入港した際
立会った嘉兵衛の姿とか。 |
![](img/hakodate/takadaya_kahee_takuato.jpg) |
高田屋嘉兵衛邸宅跡
嘉兵衛は、
北洋漁業の先駆者として歴史に
名をとどめますが、
「箱館発展の恩人」と
称される側面も併せ持っています。
私財を投じての
箱館への社会貢献度が甚大で
「箱館の嘉兵衛か」、
「嘉兵衛の箱館か」と言わせています。
写真は、高田屋御殿と呼ばれた邸宅跡 |
![](img/hakodate/akarenga_soko.jpg) |
金森赤レンガ倉庫群
建物は明治末期のものとか。
建物内は、ビヤホール、
レストラン、ショッピングモールなどが
所狭しと並んでいます。
中国からの観光客が
大勢訪れていました。 |
![](img/hakodate/sumiyosi_boti_fukei.jpg) |
函館 住吉町共同墓地
この道を真っ直ぐ奥へ進むと
立待岬が待っています。
しかし冬季は通行止めのようで、
車は入れません。
この墓地に
坂下の方から順番に
小池毅、雑賀重村、石川啄木が
眠っています。
この道左手には
津軽海峡が渺々と
広がっていました。
青空も、のぞいてくれました。 |
![](img/hakodate/koike_tuyosi_haka.jpg) |
小池毅墓所
会津藩侍医・小池求真の三男として
北海道歌棄郡有戸村に誕生。
後、医学を志し北里柴三郎に
師事するも細菌研究をめぐり
破門同様の身になる。
やがて、ペスト流行の台湾に
派遣され、その最中、自身も罹患する。
背景は、津軽海峡
合掌 |
![](img/hakodate/isikawa_takuboku_haka.jpg) |
石川啄木一族の墓所
啄木の両親、妻、そして
子供達が眠る。
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし十五の心
不来方は南部氏の居城・盛岡城のこと。
授業をサボって時々
この城跡で遊んだんでしょうね。
大好きな和歌です。
合掌 |
![](img/hakodate/saiga_haka.jpg) |
雑賀重村墓所
手前側に三基並んでいますが、
雑賀重村の墓は
一番左側です。
合掌 |
![](img/hakodate/saiga_hakasho_fukei.jpg) |
雑賀重村墓所からの津軽海峡
墓参の後、
墓所の傍で
背を向けると
写真のような風景が
広がっていました。
重村さんから
頂戴した世界のようで
嬉しくなりました。 |
![](img/hakodate/hekketuhi.jpg) |
碧血碑
函館山の南面 麓に
ひっそりと佇んでいます。
あまりにも寂しげな山中なので
行く事をためらっていましたが、
相棒が偶々、谷地頭の
電停までやってきたので、
意を強くし、是非に、と
お参りしてきました。
上掲した函館護国神社との対比に一考…。 |
![](img/hakodate/yanagawa_kumakiti_hi.jpg) |
柳川熊吉翁之寿碑
碧血碑の左手傍らに
写真のような柳川熊吉の寿碑がありました。
詳細は下掲の説明を。
函館戦争後の死体放置に、
義憤を感じた柳川熊吉は
実行寺の僧らと共に
実行寺などに仮埋葬。その後、函館山の
この地に改葬します。
その2年後に碧血碑が建立されます。
死体埋葬の不許可、
明治維新の裏面の冷酷さを感じます。 |
![](img/hakodate/yanagawa_kumakiti_hi_setumei.jpg) |
「柳川熊吉翁の碑」の説明 |
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