慶応4年5月26日、人見勝太郎、伊庭八郎などを主力とした遊撃隊と小田原藩は湯本山崎で激突。
以前から興味がありました。「ついでの史跡巡り」ですが、かつての激戦地の空間に浸ってきました。
そして戦国大名・後北条氏の菩提寺にも寄ってきました…

駒ノ爪橋跡

『新編相模国風土記稿』に
「駒留橋 東海道中湯本村界の
清水に架す。石橋なり。長3尺(90cm)
幅2間(3.6m)、両村の持。
橋上に頼朝卿馬蹄の跡と伝あり。
旅人此橋に足痛の立願す」と
記されている古の橋跡。

石橋は、後に
山県有朋の別荘・古希庵に移動。

駒ノ爪橋跡と旧東海道

写真の道が、旧東海道。
右手手前に、上記の説明板が。

前方に見える道は
国道一号線。



旧東海道と山崎エリア

「山崎古戦場跡の碑」が
この旧東海道の先にあったのですが、
そこは大規模な工事中で、
その石碑は、移動か撤去か、
見あたりませんでした。

かつての激戦地・山崎は写真のごとく、
静謐そのもの…。

三枚橋

伊庭八郎は、慶応4年5月26日、
箱根山崎の戦いから箱根関所方面に
退却する最中、この橋上にて
左腕を負傷。
相手は、小田原藩士・高橋藤五郎。

隻腕となった伊庭八郎、
箱館でも奮戦。
気魄に圧倒されます。

三枚橋の銘板

現在、三枚橋はご覧のように、
やさしく「ひらがな表記」。

伊庭八郎さんのイメージを
膨らますのに、苦戦。

早雲寺の寺名碑

山門前に建つ寺名碑ですが、
その背景には、
工事中の看板が。

早雲寺に関しては以下に
そのURLを記します。
詳細はそちらで…。

http://www.souunji.jp/

早雲寺にある
後北条五代の墓所説明板

豊臣秀吉の小田原征伐で
本陣となった当寺は
その戦後、数多あった塔頭は
盡く灰燼に帰することに…。

後代、河内狭山藩主となった
子孫の北条氏治により下方の
写真のように墓所が
整理されたとのこと。

後北条五代の墓への石段

滑らぬように…

後北条五代の墓所

北条五代(早雲~氏直)の墓が
整然と木漏れ日の中に…

向かって左から
早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の
各氏の墓が並びます。

彼岸の中日でもあり、
供花が。

遊撃隊戦死士墓と慰霊碑

早雲寺の山門をくぐると、
左手にこの写真のような
光景を拝見できます。

碑には建立日が
明治13年6月とあり、
建立者は
静岡県士族 人見寧

正眼禅寺山門

早雲寺からほど近くに
この寺があります。
徒歩5分くらいでしょうか。

山崎で戦った遊撃隊は、
この正眼寺に火を放ち、
箱根方面に敗走したとか…

このお寺は、
曾我兄弟にも
縁のあるお寺のようです。

正眼寺本堂入り口

カメラが
ハレーションをおこしており、
見にくいですね。
スミマセン。m(__)m

和宮最期の地・環翠楼

正面建物が
箱根塔ノ沢にある環翠楼の一部。

脚気を患っていたとのことで
療養されていたのが、
この環翠楼。
しかし甲斐無く
32歳で黄泉の国へ。

時代に翻弄された方の
お一人でしょうか…

環翠楼正面

写真から往時が偲ばれます。

この旅館の前を流れる
早川の対岸山腹には
和宮の通夜、密葬が執り行われた
阿弥陀寺があります。

畑宿本陣茗荷屋跡の説明

かつて、この本陣には
名園があり、
箱根の関所での
取調に不快満面のハリスは
この庭園で和み、
ご機嫌を恢復されたとか…

畑宿本陣跡

上記説明板から少しバックすると
このような風景になります。

現在の畑宿と箱根街道

畑宿は現在
寄木細工の町として
有名ですが、かつては
箱根街道の中間点にある
宿場として栄えていたようです。

道は大分拡幅された箱根旧街道。

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