原敬の生家跡・正門
200坪の屋敷だった原敬の生家は、
今はその5分の1程度。
往事は、藩主を迎える「御成座敷」もあったとか。

栗の木
説明板をお読み下さい。

原敬生家
生家は原敬の祖父・原直記が1850年(嘉永3年)に
大改築を行ったもので、木造平屋建ての真壁造りで一部が二階建て、
かや葺き屋根の寄せ棟造り。
特別行事のある時は、一般開放されるようです。

作人館跡
15代藩主南部利剛(としひさ)は慶応2年(1866)、校名「明義堂」を「作人館」と改称。
藩校の機構を修文所(和漢学)、昭武場(武芸)、医学所(医学)の
3部門に分割し、 生徒200余名を養成。
原敬・田中館愛橘など有能な人材を輩出した。

南昌荘
南昌荘は、盛岡出身の実業家瀬川安五郎が、 明治18年頃に建築。
原敬が、欧米視察前の1ヶ月間(明治41年7月から8月1日)暮らした。

圓通(えんず)神社
昭和55年、建設工事の時、氏神の一部が出土。
よって、有志により復元、とあります。
原敬別邸・介寿荘跡にあったんですね。
圓通とは、仏教語で‘悟り'という意味とか。
西園寺公望は、原敬をして「圓通」を得た人物と評しています。

原敬遺愛の方形灯龍
原敬の別邸介寿荘にあったものを昭和34年4月10日、
翁本舗の先代・立花正三氏が「介寿荘、庭樹庭石頒布会」で落札した。
立花氏は、説明板も立て、お店(菓子)の外からもよく見えるように展示している。
この灯籠は関西地方の石造りで、盛岡では珍しいとか。 

大慈寺
故有って、原敬はここを自分の墓所と決めていた。
私事で恐縮だが、母の実家の傍にあり、
子供の頃よく遊んだお寺でもある。
正面入って左手に原夫婦の墓所がある。
また、ここには原内閣の書記官長でもあった
高橋光威氏の墓もある。

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