肘折・打当・猫啼温泉
墓参の途次、薫風の中、東北の山野を巡りました。
以前より気になっていた秘湯を訪ねたのですが、「冬期間 通行止め」の解除が
未だ為されずに(情報不足)、通行不能。行きつ戻りつのドライブでした。
こうした山奥にも、戊辰戦争の波が、押し寄せていました。

松ヶ岡開墾記念館

詳細は、左の写真に譲ります。
庄内藩の戊辰戦争その後、と
言ったところでしょうか?

戊辰後の生業を
絹に求めたのでしょう。
庄内藩士・松本十郎は、
この開墾事業には
加わらなかったとか…

松ヶ岡開墾場案内図

少々見にくいですが、
場内は結構広いです。

下の写真は、右の写真の中では
3番にあたります。

松ヶ岡開墾記念館

明治8年創建の蚕室の一つ。

明治維新後の
庄内藩の農地開拓の
歴史を伝える記念館になっています。

この蚕室の建築を担当した
棟梁・高橋兼吉は
藩の実力者・菅実秀とも
知り合いになり、
酒田にある、あの山居倉庫建設へと
繋がります。

松ヶ岡開墾場構内

結構広いです。
藩士たちの、
開墾の苦労が偲ばれます。

新徴屋敷

幕末、庄内藩の配下にあり、
江戸市中取締にあたった新徴組。

幕府瓦解後、
庄内藩士達と移住して来た彼等は
写真のような住宅を
城下に建ててもらいました。

その後、建物は、
この松ヶ岡に移築され、
現在にいたる一棟です。

新徴屋敷の説明板

「庄内藩」お休み処

庄内藩の好きな私は
コーヒーまで美味しそうに感じて
ついつい、中へと。

肘折温泉説明板

松ヶ岡開墾記念館から
ぐるーっと羽黒山の
山裾をまわり
肘折温泉に入りました。

ドライブ時間、1時間40分ほど。

肘折温泉商店街(一部)

写真のように路地が狭く、
車での湯治客には大変。
ゆっくり気分で湯治を、と言う方は
JR新庄駅からのバスがお薦め。

温泉はスッゴク熱いです。
浴槽の蛇口を全開して
ジャージャーうめました。

山菜料理満載の
おいしい夕食でした…

秋田内陸縦貫鉄道

マタギの里・打当(うっとう)温泉に
向かう途中で、線路だけでも
写真に納めようとしていたら、
運良く電車が!
思わず心が奮い立ちました。

列車本数が少ないのに、
「幸運!」の一語に尽きます

左通駅(さどおりえき)

秋田内陸縦貫鉄道の駅の一つ・
左通駅。
(写真中央の桜の傍)

「山笑う」という春の季語がありますが
こうした情景を語るのでしょうか…

マタギの湯宿の熊

玄関すぐのラウンジに
飾られている熊。

初めて目にするこの大きさ、
唯々驚いて、
暫く眺めていました。

さすがマタギの里・打当(うっとう)温泉。
2㎞ほど山に入ると
阿仁熊牧場があります。
夕食は熊鍋でした。

根子マタギ・
佐藤松五郎墓所

戊辰戦争の時、
秋田藩は、射撃の上手な
阿仁(あに)や仙北地方のマタギを
士分格として召し抱え、
特殊部隊を組織して戦ったとか。

根子マタギだった、
佐藤松五郎は、
藩の命令で従軍、
結果、不運にも落命。

笑内(おかしない)駅前の
根子トンネルを過ぎると
直ぐの所にこの墓所がありました。

合掌

根子(ねっこ)山神社

 根子マタギの神様である
山の神を祀っているのが
この根子山神社。

静かな山里でした。
私が遊ばせて頂いている間も
里の人に出会うことが
ありませんでした。

内藤湖南生誕の地

秋田内陸縦貫鉄道を
北上して鹿角へ。

東洋史の泰斗・
内藤湖南は鹿角の出身。

その生誕地に建立された石碑。
鹿角市先人顕彰館が
近くにあります。

啄木の歌碑

北上川のほとりに広がる渋民公園。
河畔に立つ石川啄木の歌碑には

やはらかに柳あをめる北上の
岸邊目に見ゆ泣けとごとくに

と刻まれています。
大正11年4月に建立。
この石碑の右斜め後方には
鶴飼橋があります。

写真正面は岩手山、
写真の立位置背面には姫神山。

鶴飼橋と北上川

啄木の歌や小説に登場する
鶴飼橋です。

山々に囲まれ、
北上川と戯れ…、
彼の原風景だったのでしょう。

ふるさとの 山にむかいて言うことなし
 ふるさとの山は ありがたきかな

自然体です…

羅須地人協会

大正15年に、宮沢賢治が現在の
花巻市に設立した私塾ですが、
もとは、実家・宮沢家の建物。

「これからの農業を」と企図して
設立されたのでしょうが、
約7ヶ月間で閉鎖。
後、この時代に対して、
彼は、自虐感をいだいたような…

花巻農業高校の一角にあります。

下ノ 畑ニ 居リマス 賢治

良く目にする写真アングルです。
上記写真の裏側にあります。

「下ノ……」の黒板の文字は
花巻農業高校の生徒の方々が
書き続けているとか、
スゴイですね、後輩たちは。

馬場都都古和氣神社

福島県棚倉町にある
この神社は
第12代景行天皇(日本武尊の父)の
御代に(4世紀前半?)スタート。

807年、坂上田村麻呂が
現在の棚倉城址に社殿を造営、
日本武尊を相殿に配祀、後、
丹羽長重が棚倉城建築のため
現在地に遷座させたとか。

「歴史」に歎息…

馬場都都古和氣神社
宮司・西郷頼母

神社の入口に設置されている
案内板。

明治8年から3年程
この社の宮司を務めたとあります。
その短期間に、
この神社の歴史や宝物などを
「縁起備考」という本に
纏めているとか。
流石ですね。

馬場都都古和氣神社の
裏参道沿いで偶々目にした雉。

目前に、本物が初めてお目見え。
心ばかりか、
手まで震えています。

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