|
伊達市を皮切りに、余市、黒松内、せたな、熊石、乙部、江差、松前、
福島、知内、木古内、函館、森を一巡してきました。
念願の矢不来は、暴風雨のため散策が不可で通過のみ。
また、函館は2,3ヶ所のみで今回の史跡巡りの幕を閉じました。
次回こそは…。 |
![伊達市迎賓館](img/hokkai_nansei/geihinkan.jpg) |
伊達市迎賓館
亘理・伊達邦成が家臣250人とともに
入植したのが、明治3年(1870)
。
早期の入植故に、
その苦労も大変だったようです。
この建物は、伊達亘理の
労苦の結晶でしょうか…。
「伊達小史」を読んでいると、
邦茂の母・貞操院保子も
スゴイ女性と感じ入りました。
|
![迎賓館案内板](img/hokkai_nansei/geihinkan_moji.jpg) |
迎賓館案内板
迎賓館側にある案内板
|
![伊達邦茂銅像](img/hokkai_nansei/kunisige_zo.jpg) |
伊達邦茂銅像
伊達氏より寄贈された
7,000坪の敷地に
伊達邦茂像があります。
開拓に当たり
大変な労苦をされたようで、
家老の田村顕允とともに
顕彰されています。
|
![田村顕允銅像](img/hokkai_nansei/akimasa_zo.jpg) |
田村顕允銅像
伊達邦茂銅像と並んであります。
開明的な方のようで、
伊達移民団への尽力は
いかばかりか…。 |
![殉節碑](img/hokkai_nansei/gonbe_junsetu.jpg) |
殉節碑
「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分」
と会津藩の全責任を自ら負い自刃した
萱野権兵衛の殉節碑です。
ニッカウヰスキー北海道工場・余市蒸溜所の
ほど近くにあります。
|
![吉田農園・現当主](img/hokkai_nansei/ringo_jii.jpg) |
吉田農園・現当主
早朝のお仕事の最中、
お邪魔して、余市のリンゴのことを
いろいろ聞かせていただきました。
果樹園内にある明治からの現役の
リンゴの木を拝見させていただきました。
下の写真がそれです。
その節はお世話になりました。
|
![リンゴの木・緋の衣](img/hokkai_nansei/hinokoromo_ki.jpg) |
「緋の衣」のリンゴの木
明治の余市で生まれたリンゴ。
現役です。
北方の地で、寒いせいか、
甘さがあり美味しいとのこと。
一度是非食してみたいですね。
毎年10月半ば過ぎ、
札幌三越で
北海道の収穫祭があり
出品されるとのことです。 |
![開村記念碑](img/hokkai_nansei/kaison_kinen.jpg) |
開村記念碑
会津藩士達が
この余市に入植して50年を記念して
大正9年に余市在住の
会津藩士や子孫等によって
建立された碑です。
以前、この地に入植間もない頃に
建てた学校「日進館」があったとか。
|
![作開・観音寺](img/hokkai_nansei/kannonji.jpg) |
作開・観音寺
南作開にある観音寺。
会津藩士・小池求真の次男・清次郎が
この地に入植し、この地で亡くなりました。
この寺の裏山に土葬されているとのこと。
口碑によると
土地の人々に人望があり、
熊野神社建立に際し、ご自分の土地を
寄進されたとのこと。
この寺の墓地には、明治4年に入植した方々の
お墓も散見されます。 |
![小川弾治墓所](img/hokkai_nansei/kannon_haka2.jpg) |
小川弾治墓所
観音寺で小池清次郎の墓を探していたとき、
明治4年に斗南藩から入植した
小川弾治の墓に遭遇。
そしてその直ぐ近くに、同じく入植された
山下喜平の墓も。
全く予期せず、驚きました。
そして参拝させていただきました。
合掌! |
![山下喜平墓所](img/hokkai_nansei/kannon_haka1.jpg) |
山下喜平墓所
上記にも記しましたが、
予期せず、明治4年に入植した
山下喜平の墓に遭遇。
合掌! |
![熊野神社](img/hokkai_nansei/kumano_1.jpg) |
作開・熊野神社
先ほどの、小池清次郎が寄進した土地に
写真のような熊野神社があります。
この鳥居に到着するまで、
9号線からかなりあぜ道を歩きました。
道々、カタクリの花が満開に
沢山咲いていました。
踏まないように、ソロリソロリ…。 |
![小池清次郎頌徳碑](img/hokkai_nansei/kumano_2.jpg) |
頌徳碑
小池清次郎の頌徳碑。
熊野神社の本殿左側にあります。 |
![頌徳碑裏面](img/hokkai_nansei/kumano_3.jpg) |
頌徳碑裏側
碑の裏面には左のような文言が
刻まれておりました。 |
![熊野神社敷地](img/hokkai_nansei/kumano_4.jpg) |
熊野神社敷地
神社北側から、敷地全体を
写してみました。
かなり広いですね。
右手端に赤い鳥居が見えます。 |
![黒松内町の田野](img/hokkai_nansei/kuromatunai_denya.jpg) |
黒松内町の田野
9号線から見た田園風景
後方の山は長万部岳でしょうか? |
![朱太川](img/hokkai_nansei/syubutogawa.jpg) |
朱太川
黒松内、作開を潤す朱太川。
訪問したときは、
雪解けで、
水は滔々と流れていました。 |
![南作開田野](img/hokkai_nansei/sakkai_nouti.jpg) |
南作開田野
明治4年に入植した
会津藩士達が苦難を重ね
開拓した土地であると思うと…、
佇立し、しばし眺めていました。 |
![作開のバス停](img/hokkai_nansei/sakkai_basu.jpg) |
作開バス停
斗南藩士が苦難の日々を送った作開。
その土地の文字が欲しく、
このバス停が目に付き、
思わずワンショット! |
![歌棄浜辺の神社](img/hokkai_nansei/utasutu_jinja.jpg) |
歌棄の浜辺の神社
歌棄郵便局の手前に、
不明(文言が見あたらない)の
神社がありました。
神社の向こうは、寿都湾。
明治期に歌棄に入植した
斗南藩士も参拝したのでしょうか…。
|
![寿都湾の海](img/hokkai_nansei/utasutu_umi.jpg) |
寿都湾の今
上記の神社の左横には
写真のような景色が展開。
かつてはニシン漁で賑わった浜。
斗南藩士も漁期には
「日雇いで漁師の手伝いをした」と
黒松内町史は語っています。 |
![丹羽村共同墓地](img/hokkai_nansei/niwa_hakamiti.jpg) |
丹羽村共同墓地
丹羽五郎の墓所は、
コンクリートでできた道の(写真白い部分)
最上地にありました。
一族の方々が眠っておられました。
|
![丹羽五郎の墓所](img/hokkai_nansei/niwa_haka.jpg) |
丹羽五郎の墓所
上記の写真コンクリート部分を
登りきった左手に
丹羽五郎の墓がありました。
会津を後にして、
異郷で生きる決意をした五郎。
会津藩士の無言の勁烈さを感じます。
|
![能教寺](img/hokkai_nansei/noukyoji.jpg) |
能教寺
丹羽五郎の曽祖父
・丹羽能教の諱より名付けられた寺。
敷地は全て丹羽五郎の寄付によるものとか。
寺は、説教場としてスタートし、
仮称で「能教寺」としました。
昭和3年8月30日、
丹羽五郎が76歳で死去する7日前に
正式に寺号を「能教寺」と定めたとあります。
|
![丹羽五郎胸像](img/hokkai_nansei/tamagawa_kyouzou.jpg) |
丹羽五郎胸像
玉川公園入口の右手に
写真のような胸像が建てられています。 |
![玉川神社階段](img/hokkai_nansei/tamagawa_kaidan.jpg) |
玉川神社階段
正面階段です。
数えてはいないですが、相当の段数。
日々の鍛錬が不足しているので、
半分近くも登るとヘトヘト。
この階段、中程左手に
白虎隊遙拝所があります。
更に進んで、最上地右手奥に
玉川神社社殿があります。 |
![白虎隊玉川遙拝所](img/hokkai_nansei/tamagawa_youhai.jpg) |
会津白虎隊玉川遙拝所
丹羽五郎は、飯盛山に散った隊士19名の霊を
郷里の会津若松の地にあるが如くに、
大正13年(1924)7月、
この地に白虎隊遥拝所を建立しました。
白虎隊士の有賀織之助と永瀬勇二は
丹羽五郎の従兄弟とか。 |
![玉川神社](img/hokkai_nansei/tamagawajinja.jpg) |
玉川神社
丹羽五郎が、信仰心の涵養こそが
開拓を進めるうえで団結力の根拠となると考え、
小さい祠を作ります。
標柱を設け
「稲荷大明神」を祀り
玉川神社と称したのが
始まりであったと伝わります。
|
![瀬棚の田野](img/hokkai_nansei/setana_denen.jpg) |
瀬棚(せたな)の田野
玉川公園近くにある
能教寺からの瀬棚の田園 |
![荷卸の松](img/hokkai_nansei/setana_niorosi.jpg) |
荷卸の松
明治25年3月21日、丹羽村開拓の祖・
丹羽五郎が、最初の開拓移民一行と共に
開拓地に入った時、
この樹下に荷物を下ろし、
小屋掛けして露宿を数日。
後、この樹を「荷卸の松」と命名し、
開拓の記念樹として
今に伝わります。 |
![荷卸の松説明板](img/hokkai_nansei/setana_niorosi_setumei.jpg) |
「荷卸の松」説明板
上記の樹木の説明が
記されていました。 |
![熊石港](img/hokkai_nansei/kumaisi.jpg) |
熊石の港
箱館戦争時の松前藩主・松前徳広が
榎本軍に追われ、
青森へと逃亡した港・熊石港
館城からは50kmほどあります。
病身(肺結核)を押して、50kmの逃亡とは… |
![乙部港](img/hokkai_nansei/otobe.jpg) |
乙部港
乙部港の今です。
「箱館戦争官軍上陸の地」碑の
左側にある説明板には、
官軍上陸に手助けした乙部漁民を
中心とした文言が並んでいました。
当然かしら…。当地なのだから…。
また乙部港は
江戸中期頃から
ニシン漁で賑わったとか…。 |
![嘆きの松](img/hokkai_nansei/nisigunyakusyo.jpg) |
旧檜山爾志郡役所と嘆きの松
郡役所と警察署の業務を執り行なう建物として、
明治20年(1887)建立。箱館戦争の頃には
無かった建物ということになります。
榎本、土方がこの地から沈みゆく開陽丸を
眺めた時は、この地は無人の
檜山奉行所だったとか。
土方は目の前にあった写真の松の幹を
何度も拳で叩き、
開陽丸の沈没に落涙したと伝わります。 |
![旧檜山爾志郡役所説明](img/hokkai_nansei/gunyakusyo_setumei.jpg) |
旧檜山爾志郡役所の説明
旧檜山爾志郡役所のことについて
記されています。 |
![開陽丸沈没地点](img/hokkai_nansei/totteikara_nisigun.jpg) |
開陽丸沈没地点からの
旧檜山爾志郡役所
開陽丸沈没地点付近からの
郡役所(矢印)を写真に収めました。
開陽は、こんなに陸近くへと
押し上げられたのですね… |
![江刺市護国神社](img/hokkai_nansei/esasi_gogokujinja.jpg) |
江差・護国神社
日本海をはるかに眺める小高い丘の上
護国神社があります。
境内には92名の新政府軍の霊を祀った
戦没者墓所がありました。
箱館戦争で松前藩士として勇名を馳せた
隊長今井興之丞、法師武者・三上超順らが
眠っていました。 |
![今井興之丞墓所](img/hokkai_nansei/esasi_imaihaka.jpg) |
今井興之丞の墓
護国神社右手に
彼の墓がありました。
館城攻撃で
「もはやこれまで…」と
自刃して果てます。 |
![江差市内の街並み](img/hokkai_nansei/esasi_matinami.jpg) |
江差の街並み
この通りは
「いにしえ街道」と名付けられています。
とても古風で、落ち着いた町並みです。
手前の建物は
「北海道新聞社 江差支局」の建物です。 |
![江刺市能登屋の坂](img/hokkai_nansei/esasi_notoyazaka.jpg) |
能登屋の坂
江差で土方歳三が宿泊した能登屋が
この坂の途中にあったので、
この名前ができたとか…。
「いにしえ街道」より撮影。 |
![江刺市 横山家](img/hokkai_nansei/esasi_yokoyamatei.jpg) |
横山家
現在の建物は今から約160年前に
建てられた家屋で、昭和38年に
北海道の文化財指定を受けたとか。
母屋と四番倉にはニシン漁全盛期の頃の
生活用具などを陳列。
右側が食堂部分で
名物「にしんそば」を食することができます。 |
![開陽丸](img/hokkai_nansei/kaiyomaru.jpg) |
開陽丸のレプリカ
オランダで建造されて
1年7ヶ月後の明治元年(1868年)11月15日、
江差沖で座礁、沈没の開陽丸。
それから124年、平成2年4月に
実物大で江差港に再現されました。
乗船してみると、臨場感タップリで、
楽しいです。 |
![開陽丸の甲板](img/hokkai_nansei/kaiyomaru_kanpan.jpg) |
開陽丸甲板
最 大 長:72.80m
結構な距離です。 |
![開陽丸の内部](img/hokkai_nansei/kaiyomaru_naibu1.jpg) |
開陽丸内部
開陽丸入口すぐの
左手に写真のような大砲の列。
最手前が海底から引き揚げられた本物。
人形がいて
砲撃寸前のもようを
伝えていました。 |
![開陽丸の弾丸倉庫](img/hokkai_nansei/kaiyomaru_naibu2.jpg) |
開陽丸内部
弾丸の倉庫 |
![折戸浜](img/hokkai_nansei/oridohama.jpg) |
折戸浜
明治2年4月17日、松前の旧幕府軍500名は、
江差へ向けて出陣しますが、
新政府軍1,500名と松前折戸浜付近で遭遇。
この時、40名以上の戦死者を出した榎本軍。
この激戦で、「4月17日、会津遊撃隊・
安部井政次戦死」と松前町史に記されています。
「政治」の字が「政次」になっていましたが…。
海潮到枕欲明天
感慨撫胸獨不眠
一劍未酬亡国恨
北辰星下送残年 |
![松前城からの海](img/hokkai_nansei/matumaejokara_umi.jpg) |
松前城からの海
松前城から松前湾を望む。 |
![松前城の石垣](img/hokkai_nansei/matumaejo_dankon.jpg) |
松前城の石垣
松前城の南面の石垣に
箱館戦争での弾痕が
写真のように残っていました。
弾痕は、新政府軍側からか、
榎本軍側からか、
判然としないとのこと。 |
![法華寺山門からの風景](img/hokkai_nansei/matumae_hokkeji.jpg) |
法華寺山門
法華寺山門から眺めた松前湾。
11月4日、松前藩攻略の旧幕府軍は、
法華寺の墓地に大砲を備え付け、
松前城を砲撃。
土方の戦略であっけなく攻略。
松前城とは、
隣り合わせのように近い。 |
![毛利秀吉の墓所](img/hokkai_nansei/houkaiji.jpg) |
毛利秀吉墓所
明治元年11月2日、
法界寺(松前藩本陣)に攻め入った
旧彰義隊士毛利秀吉は、福島で銃撃に倒れる。
その後、この福島に翌年4月まで駐留した
旧会津藩士諏訪常吉が、
墓石を建立したものと考えられている。
蛇足ですが、近くに道の駅があり、
焼きたての「殻付き牡蠣」を食べました。
メチャウマ!でした…
|
![武揚松](img/hokkai_nansei/buyomatu.jpg) |
武揚松
知内町にある武揚松。榎本武揚が、
箱館戦争の時に植えたと伝えられている松です。
小林商店のおばちゃんに
場所を教えていただきました。
「ああ、裏にあるよ!」
写真に納めて戻ると
「ちゃんとあったでしょう!」
「はーい、ちゃんとありました。
ありがとうございます!」
|
![萩茶里橋](img/hokkai_nansei/hagityari.jpg) |
萩茶里
土方歳三など榎本軍が野営した所。
しかし松前軍の鈴木織太郎の夜襲にあい
松前軍の勝利となる。
松前軍の勝利は、この時だけ。
現在の地名は「湯の里」に変わっているが、
橋の名前にその名残を留めている。 |
![星恂太郞激戦の地](img/hokkai_nansei/kikonai_hosi.jpg) |
星恂太郞激戦の地
4月20日未明、木古内の戦闘はスタート。
星恂太郞、武藤清秀ら額兵隊が
死力を尽くして戦った稲荷山付近。 |
![木古内 薬師山](img/hokkai_nansei/kikonai_yakusiyama.jpg) |
薬師山
4月12日、大鳥圭介が
伝習隊、額兵隊各一小隊を率いて木古内に入営。
4月13日早朝から開始した戦闘で、
白馬を木古内の薬師山の頂きに立て、
全軍を指揮したといわれています。
その薬師山が写真右側の山。
強雨のため、山に登れなかったのが
残念無念。 |
![咸臨丸終焉の碑](img/hokkai_nansei/kikonai_kanrinmaru.jpg) |
咸臨丸終焉の碑
木古内のサラキ岬に建つ
咸臨丸終焉の碑。 |
![禅燈寺](img/hokkai_nansei/kikonai_zentoji.jpg) |
禅燈寺山門
明治後、庄内藩士が
木古内に入植した時に
建立されたお寺のようです。
すぐ近くには「鶴岡小学校」と、
庄内地方の鶴岡と同名の
学校があります。
また同寺の一角には
庄内藩士・松本十郎の石碑がありました。
|
![松本十郎説明文](img/hokkai_nansei/kikonai_matumotojuro.jpg) |
北海道開拓使大判官
松本十郎説明板
松本十郎は、
初期の開拓行政に尽力。
原住民の信用を得、
「アツシ判官」の異名をとります。
明治7年、黒田清隆とアイヌ擁護について
意見が対立。同9年官を辞し鶴岡に戻り
晴耕雨読の生活に入ります。
帰郷後、自費で戊辰戦争戦死者の招魂碑を
建立しています。
公平無私の良い方ですね…。
|
![中島三郎助父子最期の地の石碑](img/hokkai_nansei/hakodate_nakajima.jpg) |
「中島三郎助父子最後の地」碑
木鶏の如く散った
中島三郎助の最期の地・
千代ヶ岡陣屋跡を
訪ねました。
念願が叶い嬉しかったです。 |
![中島三郎父子最期の地](img/hokkai_nansei/hakodate_nakajimafusi.jpg) |
「中島三郎助父子最後之地」案内板
函館税務署近くに建つ
案内板
雨降る中でのワンショット!
写真暗いですねぇ。 |
![一本木関門跡](img/hokkai_nansei/hakodate_ippongi.jpg) |
土方歳三最期の地・一本木関門跡
「死所を得る」ことに
“美”があるなら、
まさに、実践の人ですね。
細川ガラシャ夫人を想起します。 |
![函館・高龍寺](img/hokkai_nansei/hakodate_koryuji.jpg) |
高龍寺
明治43年に完成した山門は、総ケヤキ造り。
東北以北最大の山門といわれ、
見事な彫刻が施されています。
箱館戦争の時、
榎本軍の箱館病院分院でもありました。 |
![傷心惨目の碑](img/hokkai_nansei/hakodate_syosin.jpg) |
傷心惨目の碑
榎本軍の箱館病院分院(高龍寺)に、
新政府軍の先鋒隊が乱入。
傷病兵らを殺傷し、寺に放火。この時、
会津遊撃隊の多数が犠牲になったとのこと。
そうした会津藩士を供養するため、
雑賀重村(孫六郎)などの尽力により、
「傷心惨目の碑」が明治13年に建立されます。
|
![鷲ノ木風景](img/hokkai_nansei/mori_wasinoki.jpg) |
榎本武揚上陸の地・
鷲ノ木の風景
「蝦夷共和国」設立を夢見て
北海道に向かった榎本らの艦隊は
道南の鷲ノ木海岸に投錨します。
その地がこの写真になります。
碑はできたてのホヤホヤで、
平成24年4月とありました。 |
![鷲ノ木説明板](img/hokkai_nansei/mori_wasinoki_setumei.jpg) |
榎本武揚上陸の地の
案内板
判読が厳しいところですが、
鷲ノ木上陸の地の説明です。 |
|
ページトップ |
|
![](img/modoru_btn.jpg) |