![](img/gujo_others/kasiwazaki_noto_gujohatiman.gif) |
台風17号が到来間近といった9月1日~5日にかけての史跡巡りでした。
結果的には、曇天が多く、4日には、ひどい雨の中を走らざるを得ませんでした。
でも、趣味の世界を遊ぶ者には、気にもならず、楽しかったです。 |
![](img/gujo_others/kasiwa_jinya.jpg) |
柏崎陣屋跡
5,000坪の敷地を有し、
約126年間越後221ヵ村を支配した
柏崎陣屋は今は街の中。
高田藩主松平越中守の領地であった
柏崎は、藩主の転封にも拘わらず、
そのまま統治が続き、やがて、桑名に
転封となっても、そのままに、
本国からわずか50人ほどの人数で、
越後の領地を治めたとか。
|
![](img/gujo_others/kasiwa_jinya_setumei.jpg) |
柏崎陣屋跡の説明
陣屋跡の横にある
説明板
|
![](img/gujo_others/syoganji.jpg) |
勝願寺
浄土真宗。
鳥羽伏見の戦いで桑名藩主・定敬は
敗れ、慶応4年3月30日、
柏崎の勝願寺で謹慎。
後に彼は、主戦派となり
箱館まで行き徹底抗戦。
|
![](img/gujo_others/kuwana_bohi.jpg) |
桑名藩士戦没墓
勝願寺本堂の左手を
やや進んだ右手にある。
墓石裏面には、戊辰戦争で各地を
転戦して戦没した
桑名藩関係者への
哀悼の言葉が並ぶ。
旧藩主定敬公および遺族も
来柏し往時を偲ばれたとか。 |
![](img/gujo_others/sadaaki_syo.jpg) |
本堂の扁額「大藤山」
桑名藩主・松平定敬揮毫の
勝願寺本堂に掲げられている扁額
|
![](img/gujo_others/sadaaki_jinnyaato_hi.jpg) |
「松平定敬公本陣跡」の石碑
柏崎青年会議所により
建立された
定敬公の本陣跡の石碑
勝願寺本堂の左手前に
建てられていました。
|
![](img/gujo_others/kujiranami_kousaten.jpg) |
鯨波の交差点
かつての激戦地の
ド真ん中といった趣き。 |
![](img/gujo_others/kujira.jpg) |
鯨波のオブジェ
鯨波の交差点に鎮座している
鯨のオブジェ
|
![](img/gujo_others/kujiranami_kosenjo.jpg) |
東軍陣地
鯨波戦争で、この道路界隈は
東軍陣地で、とりわけ
向こう海側から桑名隊の
致人隊・松浦秀八、
神風隊・町田老之丞
雷神隊・立見鑑三郎
会津隊などの浮撃隊と
海側から順に手前側に
連なりました。
因みに、写真の左手家並みの後ろは
両軍が川を挟んで対峙したとされる
イサザ川が流れています。 |
![](img/gujo_others/kujiranami_aidu.jpg) |
鯨波の向山
この付近は、
会津藩士など、
鯨波戦争での浮撃隊が
布陣したところです。
写真左手側が
8号線と交叉する道路です。 |
![](img/gujo_others/isazagawa.jpg) |
イサザ川
この川を挟んで、
東西両軍が対峙しました。
当時は東軍優勢という
状況だったとか。
しかし、西軍「小出島占拠」の報が
もたらされると、挟み撃ちの
可能性が発生、
不利と悟りこの地を退却。
写真左手が
東軍陣地。 |
![](img/gujo_others/denjuro_hi.jpg) |
松田伝十郎顕彰碑
柏崎・聖ヶ鼻に彼の功績を称えた
石碑が建てられています。
「カラフトは離島なり、
大日本国境と見きわめたり」
松田は樺太が島であることを
確信しますが、それは
「間宮海峡」の名前が誕生する
前年です。
つまり、間宮林蔵よりもいち早く
樺太を島と断じた人が
松田伝十郎なのです。 |
![](img/gujo_others/hijirigahana.jpg) |
柏崎・聖ヶ鼻より
松田伝十郎の碑が建つ
聖ヶ鼻よりの眺望。
北東方向(上輪海水浴場)を望む
|
![](img/gujo_others/kokusi_ato.jpg) |
越中国守館址
伏木気象資料館の敷地内に
写真のような立派な石碑が
建立されていました。
場所は現在の高岡市です。 |
![](img/gujo_others/kokusi_ato_tatemono.jpg) |
伏木気象資料館
(越中国国守館跡)
越中国の国府が置かれ、
大伴家持が国司としてこの地に
赴任してきます。
この地で詠まれた和歌は
万葉集に数多く収載されています。
私事ですが、子どもの頃、父より
以下の歌を教わりました。
もののふの八十娘子らが汲みまがふ
寺井の上の堅香子の花
この和歌も、高岡の地で
詠まれたんですね。
奈良とばかり思っていました…。 |
![](img/gujo_others/yakamoti_uta.jpg) |
越中国守館址説明
伸びやかな良い歌ですねぇ。
僭越ながら…。 |
![](img/gujo_others/yakamoti_zo.jpg) |
大伴家持像
二上山山頂近くに建つ家持像。
この山は、月や紅葉の
名所として有名で、
四季の景色が楽しめるとか。
大伴家持は、越中の国守として
5年間この地に赴任。
この間に沢山の万葉歌を
残しています。
|
![](img/gujo_others/nanao_siro.jpg) |
七尾城
畠山氏と上杉謙信の戦い・
「七尾城の戦い」により、
1577年9月落城。
謙信が勝利して、
能登は上杉家の範疇に。
写真は、山稜を利用しての
七尾城俯瞰図
|
![](img/gujo_others/nanaojo_annai.jpg) |
七尾城本丸へ
この城山駐車場から
七尾城本丸まで徒歩20分とか。
写真左前方から登るのですが、
残念ながらハイキングは諦め。
本丸まで登ってみたかった…。
蛇足:
当城は、中世5大山城の
一つとなっています。 |
![](img/gujo_others/nanao_joka.jpg) |
七尾城下
七尾城の城山駐車場よりの眺望。
七尾市の市街地が広がります。
写真の中程の右から
突き出た島は、能登島
|
![](img/gujo_others/usubuti_taii.jpg) |
臼淵大尉顕彰碑
戦艦大和とともに生を終えた
臼淵大尉の顕彰碑。
建立は、平成21年4月7日。
場所は、父親出身の能登町当目
享年21歳ということですが、
素晴らしい言葉を残しております。
進歩のない者は決して勝たない
負けて目ざめることが最上の道だ
……
日本の新生にさきがけて散る
まさに本望じゃないか
吉田満著「戦艦大和ノ最期」より |
![](img/gujo_others/usubuti_taii_setumei.jpg) |
臼淵大尉を偲ぶ
臼淵大尉の紹介、
顕彰碑建立の経緯など、
説明、案内板が
顕彰碑の横にありました。
敬服して止まない方です。 |
![](img/gujo_others/usubuti_taii_ie.jpg) |
臼淵大尉の故郷
当目(とうめ)のお宅は、
現在、写真のような状況でした。 |
![](img/gujo_others/sojiji_soin.jpg) |
総持寺祖院
1321年の開創ということなので、
570年余をここ・能登で
曹洞宗のコアとして
布教伝道をされた由。
明治31年4月の災禍で
横浜市鶴見へ移動。
この祖院も趣のあるお寺で、
境内は「凜」とした
雰囲気が漂います。 |
![](img/gujo_others/gujo_tyotin.jpg) |
郡上踊り
8月13日~16日は、
午後8時から明方まで夜通し
踊り続けるとか。
寺社の境内・道路・駐車場・公園・
広場など、開催日毎に会場を
移して踊り明かすとのこと。
訪問は9月上旬だったので、
まだその踊り開催の
会期(7月中旬~9月上旬)に
あったので、
写真のような提灯が頭上高く
かかげられていました。 |
![](img/gujo_others/jiongokokuzenji.jpg) |
慈恩護国禅寺
郡上藩の凌霜隊は、
戊辰戦争で、本藩の意に反して
幕軍側の戦力として奮闘。
幕軍敗北となり、
故郷・郡上藩にもどれば
「赤谷揚り屋」の牢獄が
待っていました。
劣悪なこの牢獄での凌霜隊の様を
嘆き、この寺の住職・淅炊和尚が、
中心となり、藩に働きかけて、
結果長敬寺での謹慎となりました。
|
![](img/gujo_others/akatani_agariya.jpg) |
赤谷揚り屋跡
ここは故郷に戻った
凌霜隊のメンバーが
禁固の処分を受けて入牢した所です。
現在は
慈恩禅寺の庭園になっており、
秋には紅葉で賑わいます。 |
![](img/gujo_others/tyokeiji_syomen.jpg) |
長敬寺本堂
赤谷揚り屋に入牢の
凌霜隊士達は、環境悪化で、
病人が続出、見かねた
慈恩禅寺の和尚が中心となり、談判、
結果、赤谷揚屋から、ここ長敬寺に
移されました。
現在の本堂は
昭和32年に再建とのこと。 |
![](img/gujo_others/tyokeiji_setumei.jpg) |
長敬寺と凌霜隊の説明板
凌霜隊・速水小三郎の日記の一文
「道ハ一筋ナリ」の文字が
石碑に刻まれ、
郡上八幡城跡で拝見できます。
地元では秘史としてしか
語られてこなかった凌霜隊が、
今は郡上の誇りとなったとか。 |
![](img/gujo_others/sogisui.jpg) |
宗祇水
連歌師・宗祇がその昔、
この清水の湧き出る畔に
草庵を結んだことに由来。
湧き水なので、夏は冷たく、
冬は温かく
住民の「生活の水」として
使用されたとのこと。
現在は生活用水としては
利用されていないということです。
(環境省・名水百選より)
|
![](img/gujo_others/sogisui_setumei.jpg) |
宗祇水説明板
郡上八幡市の方々に
守られて今日にいたる
宗祇水
その側に建てられている
説明板 |
|
ページトップ |
|
![](img/modoru_btn.jpg) |
|
|
|