かねてより長崎の史跡をじっくりと…、などと考えていました。
今回、佐賀集会があり、チャンスとばかり長崎にまで足を伸ばしました。

長崎歴史文化博物館

長崎奉行所を模した
歴史文化博物館

鍋島藩
深堀領の武家屋敷

深堀氏は相模国三浦氏の
一族で建長7年(1255年)
八浦荘地頭職を得て
三浦能仲が下向して深堀氏を
名乗った事に始まる。

後、鍋島氏に臣従する。
その武家屋敷跡
長崎市内からバス代330.-

深堀陣屋跡の石碑

深堀純心幼稚園側に立つ
陣屋跡の石碑。
幕末、この深堀領主・鍋島孫六郎は
参謀・前山精一郎をして、
九条総督を仙台から
秋田へと移動せしめたことに成功。

後藤象二郎邸跡

長崎在住時、後藤象二郎
が住まいした所。

本蓮寺

長崎駅近くの急斜面に
立つ本蓮寺。
急坂をしばらく上って
いくと沢村惣之丞の
墓がある。

また、海軍伝習所の
伝習生頭役として
勝海舟は、本蓮寺の
境内の太乗院に
4年間滞在。

沢村惣之丞の墓

本蓮寺本堂の左側を
しばらく上っていくと、
このお墓が目に入る。

 

合掌!

光永寺

福沢諭吉が長崎遊学の折り
寄宿した寺。

諭吉は僅か1年で
長崎を離れることになる。

花月

長崎丸山の花街 「花月」
龍馬も幾たびか
足を運んだとある。

小曽根邸跡

詳細は下図を。

小曽根邸跡の説明文


大浦けい居宅跡

大浦けいは
幕末・維新期の
女性貿易商で日本茶輸出
の開拓者

西園寺公望仮寓跡

3年間を予定していた
長崎遊学は、フランス
留学の辞令が出たため
わずか7ヶ月余りで終了。

明治3年11月、長崎を出発。
そしてフランス留学へと
旅立つのである。

一本柱鳥居

山王神社二の鳥居
(一本柱鳥居)

原爆の爆心地から
南東約800mに位置したため、
黒く焼け、爆風によって
片方の柱と上部が破壊。

残った笠石の半分を
一本柱で60年以上も
支えている。

致遠館跡

佐賀藩が幕末に開いた藩校。
大隈重信が設立、校長に
フルベッキ、学生監督
として副島種臣が就任。

佐賀藩士だけに限らず
多くの若者を迎え入れた。

致遠館は、早稲田大学の
教育の原点とされる。

長崎奉行
松平康英の墓所

フェートン号事件の
責任をとり
人質解放の祝宴後
30分ほどして
自害する。

墓所は大音寺

高島秋帆宅跡

東小島町側からの石垣。
なかなか広い旧宅で
流石ですね。

長崎港

伊王島へ向かう船より
長崎港を臨む。

フェートン号事件を
思い浮かべながら
当時を偲ぶ

伊王島

伊王島港ターミナルで
目に入った時計台。
ここまで長崎港から
およそ20分ほど。

どこかロマンチックな
雰囲気が漂います。

伊王島灯台からの遠景

伊王島の突端から西方の海を臨む。
運良く天候に恵まれ、
最高の景色でした。

伊王島中ノ田台場
幕末、佐賀藩は伊王島に5ヶ所ほど
台場を築造しました。
中ノ田台場はその1つです。
地元の図書館で郷土史を拝見。
以下がその結果です。右側は現況を記述

 1.沖之島観音崎……台場の形跡無し 
 2.伊王島円通寺上…耕地
 3.干場………………道路
 4.中ノ田……………石垣が残っている
 5.出鼻………………灯台がある

四郎ヶ島砲台

幕末、佐賀藩が築造した
四郎ヶ島の砲台跡

丸印の石垣は
その 跡を示す。
(神ノ島公園より)

四郎ヶ島砲台跡の石垣

上記の丸印を拡大すると
左のような写真になる。

所々、崩落が始まっている。
史跡保存を願わずには
いられない光景である。

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