![新潟・磐越西線沿い](img/niigata_tugawa/niigata_banetu.gif) |
戊辰戦争の観点でこのエリアを見ると、会津、桑名などの藩士退却ルートに感じられます。
退却するにあたり、折々に戦闘が起こりつつも、結果は会津へ…、と。
他に、多少逸れますが、伴百悦の墓所、酒屋陣屋跡などもご紹介させていただきます。 |
![西郷隆盛宿営地](img/niigata_tugawa/takamori_syukueiti.jpg) |
新潟・西郷隆盛宿営地
この地は、現在
酒屋さんになっています。
詳細は以下の説明文写真にて |
![隆盛宿営地石碑](img/niigata_tugawa/takamori_syukueiti_kakudai.jpg) |
新潟・西郷隆盛宿営地の石碑 |
![西郷宿営地説明](img/niigata_tugawa/saigo_syukueiti_setumei.jpg) |
新潟・西郷隆盛宿営地の説明文 |
![太夫浜](img/niigata_tugawa/tayuhama.jpg) |
現在の太夫浜
写真は現在の太夫浜
背景は、
五頭連峰の残雪? |
![新潟戊辰公園](img/niigata_tugawa/nigata_bosinkoen.jpg) |
新潟市・戊辰公園
色部長門の石碑のあるところは、
戊辰公園と呼ばれています。
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![色部長門追念碑](img/niigata_tugawa/irobenagato_hi.jpg) |
色部長門君追念碑
1868(慶応4)年7月、
新潟警備を担当していた色部長門は、
太夫浜に大挙して押し寄せた
新政府軍と干戈を交えるも、
多勢に無勢、自刃して果てました。
碑文は徳富蘇峰の撰,落合東郭の書、
篆額は上杉憲章によるとのこと。 |
![石原倉右衛門殉難地](img/niigata_tugawa/kuraemon_junnanti.jpg) |
石原倉右衛門殉難地
庄内藩中老・石原倉右衛門が
武器弾薬購入の契約を終え、
庄内へ帰国する途中で
長州藩兵と出会い、
この地で慶応4年7月25日に戦死。
写真の小さな碑は(右側、木陰)昔からのもので、
大きな碑は
昭和5年に地元の人達によって建立。
合掌!
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![石原倉右衛門殉難石碑](img/niigata_tugawa/kuraemon_junnanti_setumei.jpg) |
石原倉右衛門殉難の説明
殉難の地に掲示されていた
説明板
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![酒屋陣屋跡](img/niigata_tugawa/sakaya_jinya_ato.jpg) |
酒屋陣屋跡
会津藩の酒屋陣屋の跡地。
「酒屋会談」をイメージして
しばし遊びました。
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![酒屋陣屋石碑](img/niigata_tugawa/sakaya_jinya_hi.jpg) |
酒屋陣屋石碑
慶応4年2月2日、会津藩酒屋陣屋で、
会津、長岡、村松、新発田、村上藩などが
参加する会談がもたれました。
「酒屋会談」です。
また、他のエピソードとして、
秋月悌次郎が、
陣屋副元締を担当していた時、
権田村を逃れた小栗上野介夫人一行が訪問。
結果、会津藩の世話になります。
この石碑の除幕式は
平成24年9月。
写真撮影は翌年5月なので、
出来たてのホヤホヤですね。 |
![酒屋陣屋説明](img/niigata_tugawa/sakaya_jinya_setumei.jpg) |
酒屋陣屋説明
酒屋陣屋の経緯などを記した
説明板。
余談ですが、酒屋村は
会津藩領となる前は
天領だったのですね。
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![陣屋跡周辺地図](img/niigata_tugawa/sakaya_jinya_tizu.jpg) |
酒屋陣屋周辺マップ
地図の上方●の箇所が
陣屋の石碑の在るところ。
その下の方にある黄緑の箇所が
実際に陣屋のあった所
(鈴木米穀店)
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![水原代官所](img/niigata_tugawa/suibara_daikansyo.jpg) |
水原代官所
1868年(慶応4年)3月戊辰戦争に伴い
会津藩預かりとなる。
その後、西軍の侵攻により
会津藩が退散したことで、
同年7月、代官所は123年の幕を閉じる。
廃絶から127年後の
平成7年8月25日に
写真のように復元される。 |
![水原代官所説明](img/niigata_tugawa/suibara_daikansyo_setumei.jpg) |
水原代官所説明
阿賀野市による
水原代官所の説明 |
![瓢湖](img/niigata_tugawa/hyoko.jpg) |
瓢湖
白鳥の飛来で有名な瓢湖。
水原代官所近くにあります。
湖の背景は、
五頭連峰の残雪? |
![伴百悦先生の墓所案内](img/niigata_tugawa/ban_annaizu.jpg) |
伴百悦墓所案内板
初回の参拝者には、
少々見付けにくい所に、
墓所があります。
この案内板で
意を強くして歩を進めました。 |
![伴百悦の墓所](img/niigata_tugawa/ban_hakasyo.jpg) |
伴百悦の墓
やっと、参拝できました。
嬉しかったです。
墓の右手の碑文は
越後交通社長・柏村毅氏による。
また、彼を匿ってくれた
坂口津右衛門は、坂口安吾の
ご先祖とか…。
合掌! |
![赤坂山](img/niigata_tugawa/akasakayama_kosenjo_yama.jpg) |
赤坂山
会津側から遠望の赤坂山。
慶応4年7月25日早朝、
西軍は太夫浜に上陸し、
27日に笹岡・水原で激闘が行われました。
後退した会津藩萱野右兵衛隊は
この赤坂山に台場を築き布陣。
8月1日早暁、西軍が進攻し、
激戦となります。
その後、会津藩は東方の小松へ退却。 |
![赤坂山古戦場説明](img/niigata_tugawa/akasakayama_kosenjo.jpg) |
赤坂山古戦場説明板
少々見にくいですが、
現地にある説明板 |
![佐取古戦場](img/niigata_tugawa/satori_kosenjo.jpg) |
佐取古戦場
佐取は激戦地の一つで、
阿賀野川を挟んでの戦いでした。
会津軍は、多くの戦死者を出し
長徳寺・石井佐久次方に火を
放ち退却しています。
この古戦場近くには
咲花温泉がありますよ。
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![長徳寺](img/niigata_tugawa/tyotokuji.jpg) |
長徳寺
前述した長徳寺です。
ここには、佐取の戦いで戦死した、
白虎隊士・星勇八の墓があります。
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![星勇八墓](img/niigata_tugawa/yuhati_haka.jpg) |
星勇八の墓
長徳寺に眠る
白虎隊士・星勇八
山門を入って、
すぐの右側にありました。
合掌! |
![津川代官所跡](img/niigata_tugawa/tugawadaikansyo_sekihi.jpg) |
津川代官所跡の石碑
津川は古くから舟運交通の要地で、
経済的にも要となった場所で、
中世から近世にかけては会津領。
現在は、新潟県に属します。
津川の町の重要性から町並みの中心部に
代官所が設けられたようですが、
当時の面影は消滅しています。現在は、
「狐の嫁入り屋敷」が建てられています。 |
![津川代官所跡](img/niigata_tugawa/tugawadaikansyo_ato.jpg) |
狐の嫁入り屋敷
以下は、阿賀町のサイトからの紹介文(要約)
“交流”をテーマに、
地域の人々と旅人が素敵な物語をつくる場所。
館内では、狐火をテーマとした映像や、
毎年行われる津川狐の嫁入り行列の様子を
約1/30で再現したジオラマの展示があり、
また、地元のお土産ものも販売。
狐のメイク体験、
狐の面づくり体験(絵つけ)もできます。
また、各種イベントに利用できる
多目的広間を完備しています。 |
![津川河港](img/niigata_tugawa/tugawaminato.jpg) |
津川河港
江戸時代、会津藩は物資を
会津若松から津川までは
会津街道で陸路輸送し、
津川から新潟までは
阿賀野川の水運を利用していたとか。
一日150隻もの帆掛け船が
発着していたとも言われており、
さぞかし殷賑を極めたことでしょうね。
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![津川河港説明](img/niigata_tugawa/tugawaminato_setumei.jpg) |
津川河港説明文
写真の説明文を読んでいると、
往時が偲ばれます… |
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![](img/modoru_btn.jpg) |
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