小千谷・三国峠界隈 

関越自動車道を月夜野ICでおりて
三国街道を走り、峠を越えて小千谷までの史跡巡りです。
小千谷、長岡には戊辰の史跡が沢山あるので、また、折を見て
遊ばせて頂ければと思っています。

名胡桃城跡

名胡桃城跡

名胡桃城事件の舞台であり、
真田昌幸とは縁の深い城です。
鈴木右近の父が城代をつとめていました。

名胡桃城事件の結果、鈴木右近は
真田昌幸嫡子・信之直近の家来となり、
信之病没後に殉死しています。

話は逸れますが、
真田物語はおもしろいですね。

永井宿郷土館

永井宿郷土館

猿ヶ京近くの永井宿は
上越線の開通まで
越後米の関東への流出口であり、
米取引の「陸の船着き場」
ともいわれたとか。
本陣をはじめ、
諸大名の参勤交代・佐渡奉行・新潟奉行の
休泊地でもありました。

この郷土館には三国街道沿いの
宿場町が描かれた図が展示されていて
興味深いです。

三国街道遊歩道案内図

旧三国街道遊歩道案内図

この地図だけ見てると
とても見やすく、場所の判明が
容易な気がします。

でも、実際は、木々が生い茂り、
視界を邪魔して、
史跡巡り当日は、結構迷いました。
また、それも楽しからずや…
ですが。

町野久吉墓所

町野久吉の墓所

三国峠近くにある、
町野主水の弟・久吉の墓所です。

兄の制止も振り切り、
敵中に飛び込んでいった
彼の鬼気迫る突撃、
誠忠一筋の会津藩の
無念を語るにあまりあります。

雪峠

雪峠

この地で、慶応4年閏4月26日、
会津藩兵と衝鋒隊 VS 西軍が戦闘を開始。

西軍は約1500人、
会津、衝鋒隊などは200人ほど。
当初は東軍が有利でしたが、
夕刻、西軍の別働隊の
側面砲撃を受け、
東軍は小千谷、ついには片貝へと
退却を余儀なくされました。

この石碑の裏には『昔戦場、今農場…』と
刻まれています。ユニークですね。

慈眼寺・会見の間

慈眼寺・会見の間

長岡藩家老・河井継之助と
西軍軍監・岩村精一郎が
会見した場所ですが、
中越地震で大変な被害を被り
現在は、写真のように
復旧されたようです。

この会見の間を拝見しているとき、
当時の会見の模様を語る、
音声が流れてきて、
臨場の思いを深くしました。
(歴史場面に居合わせたような…)

慈眼寺の寄付説明

慈眼寺ご寄付のお願い

訪問した時、左のような案内文が
掲示されていました。

ご賛同の方は、よろしくお願いします。
慈眼寺HPを下記に。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/

時山直八の碑

時山直八の碑

小千谷の船岡山公園の
官軍墓地入口の左側に
建立されています。

時山直八墓所

時山直八の墓所

あだまもる 砦のかがり 影ふけて
夏も身にしむ 越の山風
(山県有朋)

会津藩小千谷陣屋跡

会津藩・小千谷陣屋跡地

正面の建物は、小千谷市
介護老人保健施設 「水仙の家」です。

ここに、会津藩小千谷陣屋がありました

南側にある石碑のみが
その標となるのでしょうか。

 

小千谷陣屋跡の説明

会津藩小千谷陣屋跡の石碑

石碑に刻まれた文言を
写真にとりました。

東忠

東忠

河井継之助は、
長岡藩の命運をかけた慈眼寺での
西軍との会談後、
軍目付・二見虎三郎とともに
昼食をとったのが
左写真の「東忠」でした。

河井継之助が休憩した座敷は、
「東忠」の二階であったとか。

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