戊辰戦争では、東北最大の激戦地・白河。念願叶って、巡ることができました。
大まかな史跡巡りですが、かの激戦を少しでも感じることが出来たことは幸いでした。
それにしても、島津得意芸=「釣り野伏せ」戦法を、東軍、読み解けなかったことが何とも無念。
白河には、他にも沢山の「戊辰の役」の墓碑があるようです。ゆっくりお参りしたいものです。

常宣寺参道

広い墓域でした。

説明板のあるところを
探し、さらにその近辺を
探索といった手順で、
お目当ての戊辰関係者の
お墓をお参りすることが
できました。

 

明治戊辰戦死塚

東軍戦死者を葬った戦死塚
戦死者名、人数ともに詳細不詳。

阿部内膳の墓

上記の戦死塚の近くに
彼の墓がありました。

彼についての詳細は
以下の説明板で。

合掌!


阿部内膳の墓所説明

そのままですので、
省略させていただきます。

「仙台烏に十六ささげ なけりゃ官軍高枕」

仙台烏:細谷十太夫隊長
十六ささげ:阿部内膳隊長


会津戊辰戦死十二士の墓

内膳の墓所に立つと、
その左手の方向にありました。

正面の一際大きい石碑が
会津藩士十二士の墓。
その左は下記の写真説明で
語られている
南無阿弥陀仏供養碑

会津藩士の笹沼金六、三坂喜代之助
長谷川丑吉らの墓も並びます。

合掌!

南無阿弥陀仏供養碑

この説明は上記写真で、
一番左側にある
石碑・南無阿弥陀仏供養碑に
対して記されたものです。

会津藩戦士墓
会津藩銷魂碑
長州、大垣戦死六人之墓の
地図

稲荷山公園にも通じる
登り口の所に
各石碑、墓があります。

会津藩戦士墓
会津藩銷魂碑の説明

白河市松並にこのエリアがあります。
稲荷山公園への登り口です。

会津藩墓所(松並)

白河口の戊辰戦争を
紹介している冊子には、
このエリアを「会津藩墓所」と
しています。

そこには、304名の名前が
刻まれた銷魂碑
戦後、地元の方々により建立され
戦死者の霊を弔った戦死墓
そして、この写真には写って
いませんが、右手に
田辺軍次の墓があります。

田辺軍次の墓

白坂宿(当地より南方5kmほど)の
観音寺から
白河会津会により
改葬されたとのこと。

合掌!

 

「田辺軍次の墓」説明

墓石の傍にあった、
説明板です。

長州大垣藩六人之墓

慶応4年4月25日の戦いで戦死した
長州藩・大垣藩士6名が
埋葬されているとのこと。
大正4年までは薩摩藩士7名も
一緒に埋葬されていたとか。

碑銘には
「長州大垣藩戦死六名墓」と
刻まれています。

「長州大垣藩六人之墓」説明

戦後白河の人々は、
敵味方問わず戦没兵士を葬り、
碑を建てたとか。

市内には両軍合わせて
30ほどの碑が建立され、
香華を絶やすことなく
お参りしておられるとのこと。

写真の説明もこうしたことの
一環なのでしょうか?

稲荷山

上記写真の会津藩墓所から
稲荷山頂までの途中の
道すがら、写真のような
幟が林立していました。

良いですねぇ…。

稲荷山山頂

この写真の向こうに
展望がひらけて
眺望バッチリな所があります。
そこから小丸山が前方に見えます。

西郷頼母の歌碑

白河市稲荷山古戦場跡に立つ
西郷頼母の歌碑 です。

白河口総督として
参戦した頼母は、
惨敗を喫しました。
あの戦いを想起しての
和歌なのでしょうか。


「うらやまし 角をかくしつ 又のへつ 
心のままに 身をかくしつ」

 

小丸山を望む

正面のこんもりした山が
西軍の陣地・小丸山
手前は、東軍陣地・稲荷山。
両軍対峙します。

稲荷山に兵力を集結させた東軍。
だが右方・雷神山と左方・立石山の
両方面からの西軍別働隊により
稲荷山は攻略されます。
結果、包囲され集中砲火を受け壊滅。

これが5月1日、
白河口の戦いの概略でしょうか…

白河城石垣

小峰ケ岡にあった平山城で、
東北地方では珍しい
総石垣造りの城とか。
盛岡城、若松城とともに
「東北三名城」の一つとなっています。
3.11の東日本大震災で
石垣等が崩壊したため、
本丸等は立入禁止になっていました。

石垣の崩落は、
この写真の右方向です。

小峰城(白河城)と丹羽長重

立花宗茂同様、
関ヶ原以後、
返り咲いた人・丹羽長重。
築城技術に、優れた才能を発揮。

長重の出世を知ると、離散した長重の
かつての旧臣達は集まるようになり、
また蒲生家の旧臣なども
召し抱えたとか。

やがて、長重は白河に小峰城を建築。

実直な人だったようで…

阿部正外と白河城

兵庫開港問題で世の中が喧しい頃
阿部は老中職に就いていました。
彼は朝廷の意向を無視して、
無勅許で兵庫開港を許可。

それを朝廷は「違勅」と咎め、
「官位剥奪」の勅命を下し阿部を改易。
将軍家茂は老職から彼を外し、
阿部は、棚倉藩へ転封。

この頃(慶応2年)には
朝廷は政治に堂々と容喙し、
幕威は何処?といった状況。

左の写真の上をクリックすると
別ウィンドウで大きな写真が
表示されます。

龍興寺山門

木々に囲まれた
静寂な境内です。

新緑で、一山萌葱色でした。

海老名衛門君碑銘&戦死塚

会津藩軍事奉行
海老名衛門が白河口に
藩兵を率いて出兵した折、
5月1日の西軍との戦いに
重傷を負い、
もはやこれまでと、この地において
割腹死しました。
その死を悼み建立されたのが、
写真左の石碑です。

その右手の戦死塚は
奥羽越列藩同盟軍の
戦死者を埋葬した墓石。

海老名衛門君碑銘

海老名衛門君碑銘の
説明文

撰文は、
あの南摩綱紀さん。
谷中霊園に眠っておられます。

 

脇本陣柳屋の説明板


脇本陣柳屋

戊辰戦争白河口の戦いの時、
「新撰組」斎藤一局長ほか
106名の隊士が宿営した場所。

奥に石碑が建立されています。


白河戊辰見聞館

白河の戊辰戦争に関して、
詳細な情報が得られます。

館員の方は親切で、
当方もいろいろと
ご教授いただきました。

JR白河駅の近くです。
以下にサイトを記します。

白河戊辰見聞館

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