「鳥羽伏見の戦い」最終章、淀、橋本などを巡り、ついでに、大阪夏の陣での
激戦地・八尾若江、誉田、小松山を尋ね、当時の「時空」に浸ってきました。

稲葉神社

藩主稲葉正成を祀る稲葉神社。
この祭神の妻は、
家光の乳母・春日局。

城跡の入口から
すぐの所に建てられています。

淀城・御祭神

神社正面の右手に
掲げられています。

淀城の石碑

淀城址の石碑

城跡中程に建立されています。

淀の石碑群

淀城下に、建立されていた
旧石碑をこの城址の
一箇所にまとめて
置かれているようです。

当時のその箇所には、新しい石碑が
誕生。

淀城

淀城の今

訪問したのは、
ちょうど、日曜日でした。

写真のように、
市民の憩いの場になっているような…

フリーマーケットで
とても賑わっていました。

妙教寺

妙教寺

淀エリアにある
この古刹、
戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)と
縁の深い寺です。

宗派は日蓮宗。

戊辰戦争・東軍戦死者の碑

妙教寺・本堂右手に
写真のような高い石碑が
建立されています。

書は、榎本武揚。

弾丸貫通跡

戊辰戦争時、
この寺の本堂柱までも
貫通した砲弾。

その砲弾が、左写真の
板壁の白い部分から
本堂へと飛弾していったのでしょうか?

淀古城址石碑

淀古城址

妙教寺界隈は、淀君(茶々)の在住した、
淀古城の跡地でもあります。

写真のような石碑も、
境内の一角に
設置されていました。

朝鮮通信使

朝鮮国王が日本に派遣した使節は
対馬、大阪を経由し、
大阪から淀川を上り、
この淀の雁木跡で下船。
それから陸路京へ入り、
更に東海道を一路江戸へ…、といった
経路で、将軍拝謁の手順が
なされていたのでしょう。

写真の唐人雁木跡は、
現在、淀駅前の
納所(のうそ)交差点の辺り。

鳥羽伏見之戦跡地の碑

淀の納所(のうそ)団地入口にある
この碑は、特定の戦跡を示すものではなく
この界隈の激戦により、
落命した東軍の兵士の霊を慰める為
建立されたもののようです。

裏面に「功徳主」として
お二人の個人名が刻まれていました。

千両松慰霊碑

淀も東へ大分はずれた所に
この慰霊碑があります。

この激戦地で
新選組隊士・井上源三郎も
命を落としています。

ここは、相当の激戦地でこの後、淀城へと
東軍は退却するのですが、
これまた、淀藩の裏切りに遭遇。

千両松慰霊碑

この埋骨地碑の前で、妙教寺住職が
毎年2月4日に法要を営まれるとか。

私の突然の参拝にも、
写真のような供花。

永遠に!

戊辰役東軍戦死者埋骨地

戊辰役東軍戦死者埋骨地

この地は淀城跡から東方へ1.4キロほど、
京都府道124号線沿いにあります。

過去の写真、絵図などを繙くと、
沢山の松が植栽されており、
「淀堤千両松」に相応しい
景観を呈しています。

東軍は、彼等の戦意空しく
淀城に引き揚げるのですが、
あの裏切りに遭遇。

「機を見るに敏な藩」でした。

樟葉台場跡の今

樟葉台場跡は、現在工事中です。、
将来的には、住宅地と歴史文化施設地区と史跡公園になるようです

写真は、南面の土塁跡でしょうか…。

向こうに見えるのは山崎の戦いの
古戦場・天王山です。
麓には、藤堂藩の受け持ち台場
高浜台場跡があります。

ここでも東軍は、
藤堂藩に裏切られました…

誉田八幡宮

伊達政宗軍らと真田信繁軍等が
対峙したところであります。

また、この誉田の戦いで、
薄田兼相は落命。

墓所が誉田八幡宮から
徒歩10分位の所にあります。

薄田兼相墓所

綺麗な供花が。
きっと地元の方に
見守られているのでしょうか

住宅地の一隅ですが、
結構広いエリアを擁しています。

薄田兼相墓所説明

この文章の後半部分で、
広島藩主・浅野家が登場しています。
どこで繋がるのか、興味津々です。

拡大写真は写真上をクリック

玉手山公園

やってきました。
あの憧れの後藤又兵衛討死の場所。

時を映して
新緑が眩しいです。
現在この公園の右手奥に
又兵衛の石碑があります。

一度は来訪を、と願った場所で、
とても嬉しかったです。
又兵衛さん、こんにちわ!

後藤又兵衛基次の石碑

この石碑と並んでの記念撮影。
ご満悦です。

黒田長政による
「奉公構」もモノともせず、
我が道をまっしぐら、
権力者に媚びません。

又兵衛は、道明寺の戦いの
数日前、家康からの帰順の
申出もありましたが、拒絶しています。

生き様としては、
燦然とするものが
あります。
私の贔屓目でしょうか…。

「大阪夏の陣」古戦場

写真上をクリックすると
大きめの画像が表示されます。

長宗我部盛親・物見の松
(八尾の戦い)

八尾の戦いで、盛親軍は、
藤堂軍と一戦を交えます。
優勢であった初戦も、やがて援軍の
井伊軍の攻勢などで支えきれず後退。

この時、久宝寺に陣を張った
長宗我部軍は、この地にあった
大きな老松を利用し、東方八尾方面の
敵情を偵察したと伝えられています。

この戦いにあたり、大打撃を受けた藤堂軍。
烈士・71名のお位牌が近くの
常光寺にあります。

長宗我部盛親物見の松

その説明

木村重成公石碑
(若江の戦い)

秀頼の小姓をつとめた、
血気盛んなる人とでも称するのでしょうか。
亡くなったのは20歳そこそこ。

彼の墓所は後方の桜の木に囲まれた
一隅にありました。

 

木村重成公の墓所石碑

「墓」自体は
1760年の建立

江戸時代も中頃と
いうことでしょうか。

 

木村重成公の墓所

桜の花に見守られていました。

上記石碑中の安藤家について。

首実検後「懇ろなる弔いをせよ」との
命を受けた、彦根藩士・安藤長三郎は
菩提寺である宗安寺に手厚く葬ったとか。

しかし公然と敵方の武将の墓を建てるわけにいかず安藤家の墓所に埋葬して塚を建て、
明治維新までは代々「先祖の墓」として
守り抜いてきたとのこと。

吉野山の桜

車で63キロほど南下し、
折しも季節を迎えた
吉野山の桜見物を
楽しみました。

西行が愛して止まなかった、
吉野の桜、彼はまた、
社交辞令の歌なのでしょうか、
東北・平泉に下記の歌も残しています。

聞きもせず 束稲山の 桜花 
吉野のほかに かかるべしとは

関宿

関宿

写真は、東海道・関宿の今。
静謐な町です。

「関の山」という語源は、
この関宿発祥の言葉とか…

宿場の街並みを今に伝える
希少な史跡ですね。

東海道47番目の宿場町を背にしての
旅仕舞いとなりました…

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