一寒村に過ぎなかった横浜。
ペリー来航により、年々地図が塗り替えられ、
今や、往事を偲ぶべくもないほどの都市に変貌しました。

幕末、明治維新の往来をイメージしながら
街角の一隅に佇む史跡の数々を訪ねました。

生麦事件発生現場

文久2年、8月21日、島津久光一行は、
生麦村に差しかかったところ、
リチャードソンらイギリス人4人に遭遇。

件の殺傷事件がここにて発生。


生麦事件発生現場

写真撮影に興じる
会員の皆さん

リチャードソン絶命の地

奈良原喜左衛門により無礼討ちに
遭ったリチャードソンが
絶命した所。

この碑は鶴見の黒川荘三氏が
中村敬宇氏の撰文を得て私費で建立。


田中屋

龍馬の妻・お龍が明治7年頃、
仲居として働いていた所

山手211番館

Samuel Robbins Brownが、
2度めの来日で住んでいた
ブラウン塾の跡地

現在、横浜共立学園がある。

代官屋敷

ペリー来航時、横浜村の
名主であった石川徳右衛門さんの屋敷跡。
「和親条約」締結の陰の功労者であり、
ペリー提督の「日本遠征記」
にも当家での供応ぶりが記されている。

 

代官屋敷

屋敷前にある説明文を
読んでいる参加者の皆さん。

ヘボン邸宅跡

1862年冬、神奈川宿にあった
成仏寺より当地に引っ越す。
この地でヘボン式ローマ字が誕生。

大村益次郎や
当時11歳だった高橋是清なども
この地で学ぶ。

横浜天主堂跡

この地で日本、初めてのキリスト教会
献堂式が行われる。

明治39年、山手へ移動し、
山手カトリック教会となる。

松代藩の大砲

ペリー来航の折り、横浜応接所を
警護した松代藩が持参した大砲。

「穏便専一」を願う幕府の命で
埋蔵の憂き目にあう。

しかし、最近発掘されました。

スネル商会跡

横浜開港とほぼ同時期に
来浜したスネル兄弟は
当初から山下居留地44番館に
住んでいた。

写真のマンションはその跡地に建つ。
大桟橋に比較的近い。

神奈川運上所跡

横浜開港後、特に重要な役目を
果たした 神奈川運上所。
野毛にあった神奈川奉行所の
現地事務所的役割を担った。

現在、跡地は神奈川県庁

たまくすの木

ペリーに随行してきた
画家・ハイネの 「横浜上陸」に
描かれている「たまくすの木」。

大火、地震にもめげず、
ひこばえながら
ハマの生き証人として
今なお生き続けています。

日米和親条約締結の地

嘉永7年3月3日、
日米和親条約を締結、調印した地。

 

記念撮影

和親条約締結の地のモニュメントを
バックに戊辰戦争研究会の会員、
並びに当日の参加者の方々と
記念撮影。

皆様のご協力に感謝!

横浜仏語伝習所跡

1865年4月1日、小栗忠順、栗本鋤雲
などが中心になり設立。
幕府の瓦解で、開校から閉校まで
3年ほど。

明治初期には一時幕府軍側の病院になる。
富士山丸で帰還した
近藤勇もこの病院で世話になる。

現在、横浜市の管轄下にある。

  ページトップ